複雑で難解でどうしようもなく鬱陶しい。
けれどどうしたって手放せないもの。
『愛情』
数年ぶりに君に会った。
君は相変わらず天真爛漫で、よく笑い、楽しそうに話した。
会わなかった何年かの空白を全く感じさせないようなその様子に、私は随分安堵した。
会って話をしたのはほんの数分だった。
君は再会を喜び、私ののんびりとした相槌にきらきらと笑い、それじゃあね、と言ってお別れをした。
唐突に現れては風のように去っていった。
そうだ、君はそんな人だったね。
その距離感が私にとっては心地よかったことをじんわりと思い出した。
君がいなくなって私はまたポツリと一人残される。
静かに佇んで君が残していった余韻を楽しむ。
別れ際君は、またゆっくり話をしようと言った。
君は嘘をつかない。
きっと近々、必ず会いに来てくれるのだろう。
まだ、心臓がドキドキしている。
ほてった頬を冷ますように、私はゆっくりと歩き出した。
『微熱』
「Sky 星を紡ぐ子どもたち」より
これまでずっと、暗い穴に閉じこもって世界の全てから自分を守ってきた。
嘲りや罵りから身を守り、愛情や助けの手からも逃げるように生きてきた。
愛することを怖がって、愛されることも拒絶してきた。
希望に縋って諦めない努力をすることがどうしても出来なかった。
一度の傷が重く響いた。強い雨風には目を瞑った。
ずっと、狭い世界で生きてきた。
本当は気に掛けてくれて嬉しかった。
本当は大好きって伝えたかった。
全てを跳ね除けるのは心が痛いよ。
でも期待するのが怖いんだ。
ひとりで悲しみに耐えるのはもう嫌だよ。
でもそうした方がまた傷付かなくて済むんだ。
もうこれ以上、心をかき乱されたくないんだ。
自分を守るふりをして周りを傷つけていることにも気付かずに、聞こえる全てを雑音にして耳を塞いできた。
私は暗闇に生きていた。
そうすることしか、できなかった。
❄︎
うん。そっか。
辛かったね。悲しい思いもたくさんしたね。
優しくされて裏切られるのはしんどいよね。
がんばっても報われないことの方が多いよね。
完璧ばかり求められて、疲れちゃったよね。
ここまでよく、歩いてきたね。
信じることって怖いよね。
注いだ愛情や信頼が、いつでも同じ量だけ返ってくるわけじゃない。
心が読めるわけじゃないからさ、分からないこともたくさんあって、分からないことが怖いよね。
この人なら絶対大丈夫って、自分の感覚だけじゃなくて確たる証拠がほしいよね。
でもそんなものはどこにも存在しない。
みんなはどうやって人を信じているんだろうね?
だれかに聞いてみたいね。
きっといつか、わかるといいね。
ね。あのね。
あんまり焦って走ろうとしなくていいんだよ。
明るい光が眩しすぎるときは目を瞑っていいんだ。
大きな音で耳が痛いときは塞いでいいんだよ。
ぼくはきみを前にも後ろにも引っ張りはしない。
きみの背中に寄り添って、その温もりを感じていたいんだ。
ただ、そうしていたいんだ。ずっと、ずっとね。
❄︎
本当は、信じたい。
本当は、大好きって言いたい。
本当は、差し出された手をとって一緒に歩きたい。
私のことも、信じていてほしい。
あなたに。
❄︎
足元はおぼつかない。
傷は重く痛み、心は変わらず平穏を求めている。
明るいところはまだ怖い。雑音も聞こえる。
でもあなたに会いたい。
あなたの声が聞きたい。
あなたと、ゆっくり話をしてみたい。
伝えなければ伝わらない。
伝わらなければそれは無と同義だ。
この気持ちは無かったことにしたくない。
今はまだ、細く差し込む光でいい。
いつかはきっと、あの太陽の下で。
『太陽の下で』
麦わら帽子がひらひらと落ちていく。
風に吹かれてふわりと舞い上がり、あっという間に手の届かない場所へ飛んでいってしまった。
あれは、おかあさんのぼうし。
橋の上、眼下には深い深いお堀の沼。
私は母の腕に抱かれて、上から降ってくるパンくずを当てにしてバシャバシャと群らがるたくさんの鯉たちを見ていた。
その日は風が強かった。
落ちていく帽子を捕まえられたらよかった。
何もできなかった。
私はどうしてもどうしても悲しくなって、声をあげて泣いた。
別に気に入りの帽子だったわけではない。
まして自分の帽子でもない。
“おかあさんのぼうし”があの沼に吸い込まれてしまったことが、どうしたって悲しかった。
沼は怖い。
暗くて深い。
きっと落ちたら助からない。
そんな場所に母の一部と思えるものが落ちてしまったことに、言いようのない恐怖を覚えたのかもしれない。
そんな私を見て母は笑っていた。
“あんたの帽子じゃないのにね”と。
今でもときどき思い出す。
幼少の頃の少し切ないこんな思い出。
❄︎
ところであの落ちた帽子は結局どうしたのだろう。
きっと拾ってもらっただろうとは思うが、まさかあの食いしん坊の鯉たちが食べてしまっていないといいのだが。
『落ちていく』
腕を組んで互いに支え合いながら歩いている老夫婦。
白髪の妻を慈しむような眼差しで愛おしそうに見つめる老紳士。
今は亡き夫の写真を目を潤めて嬉しそうに胸に抱く老婦人。
ああ、素敵だな、と思う。
彼らが長い時間をかけて育んだこの愛は、きっともう何ものにも壊されず揺るがないのだろう。
命は儚くいつかは消えゆこうとも、この愛だけは、決して誰にも奪えないのだろう。
綺麗で美しいだけではない。
したたかでしなやかで力強い。
“愛”と言葉で言うよりも、その目、その腕、その心で語る愛ほど説得力のあるものはないだろう。
願わくはその愛、永遠に。
『夫婦』