秋は神社に訪れたくなる季節だ。
紅葉した葉の散る様と、
朱に塗られた鳥居の堂々たる佇まい。
最っ高に眼福な光景である。
紅葉は見てよし、食べてよし。
正に秋を代表するものだとも思う。
紅葉の天ぷらを食べたことはあるだろうか?
個人的な所感として言うと、
枝豆を摘むみたいな中毒性がある。
是非とも一度食べてみて欲しい。
電車に乗るのが好きだ。
窓際の席に座って流れゆく景色を
ただ、ぼうっと眺める時間を
何とはなしに、心待ちにしているのだ。
暁の光に照らされる畑、
真っ青な空を覗かせる雲の切れ間、
宵闇に昏れる街並み。
車窓から眺める景色は、
何故だか心をほんわりと
豊かな気持ちにさせてくれる。
だから、いつも、何となく。
窓際を選ぶのだ。
スマホに向ける視線を上げて、
一時のそれを楽しむために。
どうやら私は、存外、
この時間を好んでいるらしい。
「形の無いもの」といわれたとき。
頭をよぎったのは古くからある存在の事だった。
付喪神は人から大切にされ
永い時を過ごした物にのみ宿るといわれている。
ただ、永い時を過ごすだけでは。
ただ、使われるだけでは。
九十九が宿ることは無いのだ。
それは何故か。
人の想いが、愛が、彼等彼女等を育み。
募ったそれらが、やがて人と物の間に
奇跡を起こさせるからだと私は思う。
想いは形の無いもの。
故に、強くそこに在るもの。
古来、人の想いは時として奇跡を呼び起こす。
大切にされた古い物は度々、
悪いものから持主を護ってくれるという。
それは正しく、人の想いから
引き起こされた奇跡と呼べるものだろう。
なにせ、大切に思う気持ちが無ければ、
九十九が何をしようとも我ら人が、
気付く筈もないのだから。
大切にし、愛し、想うからこそ。
彼らの行いに気付き、
その奇跡に心を躍らせられるのだ。
「付喪神」は人から大切にされ、
永い時を過ごした物にのみ宿るといわれている。
それはつまるところ、
人と物の想いが
通じ合う瞬間を
その形の無い関係を
人が言葉という形にしているだけなのだろう。
そういうものなのだと、ふと、おもった。