大空
どこまでも続く蒼穹を、飛んでみたい。あおいろで視界いっぱいにしながら、雲をかきわけて君に逢いにいく。
高いところから飛べば、青空に手が届くと思ったんだ。
白いドレスを纏えば、背中に翼が生えて、天使になれると思ったんだ。そうしたら君が迎えてくれると思ったんだ。
君がいない世界なんて考えられない。生きていけるわけがない。きっとわたしは、手遅れなところまできていた。
***
――痛い。痛くて、熱い。全身から空気が抜け切って、呼吸することさえできなくなってしまった。
わたしって馬鹿だな。空なんて飛べるはずないのにな。
目の前がぐわんぐわんと揺れて、しだいに白に染まっていく。 遠くでサイレンが鳴っているけれど、フェードアウトみたいに聞こえなくなっていく。これが完全に聞こえなくなったら、死ぬんだろうなって思った。
でも怖くないよ。もう少しで君に会えるはずなんだ。
このひとときの苦しみを耐え忍べば、今度こそ昇っていけるはずなんだ。わたしはそっと瞳をとじて、どこまでも続くあの大空を頭にうつしだした。走馬灯のかわりに。
***
目を覚まして最初に視界に飛び込んできたのは、真っ白な何かだった。やがて視界が鮮明になり、それが天井だと分かる。
――どうやら失敗してしまったらしい。
開け放たれた窓から、風が冬の空気を運んでくる。それがわたしの頬をくすぐるように撫でると、跡形もなく消えてしまう。
鳥の鳴き声、だれかの話し声、笑い声。それに混じって、ほんの少しだけ聞こえたその声が、とても懐かしかった。
微熱
君がそばにいると、なんだかわたしは変になる。
かすかな熱が体内を駆け巡った。やがて落ち着くと、じんわり広がり溶けていく。木漏れ日に照らされ、心地良さげにまどろむ君から、目が離せない。
君がそばにいると、いつもわたしは熱をだす。
頬に耳元、首筋までもを赤く染めあげる。林檎みたいになったわたしを、ふふっと笑って撫でてくれた。君は涼しい顔をしているのに、わたしだけなんてずるいよ。
この熱に、君も侵食されちゃえばいいのに。ずっと一緒にいられるから、はやくふたりで溶けちゃいたい。
明日、もし晴れたら
夏が泣いていた。夏なのに、秋の雨のように冷たい涙を流していた。
プールに入りたがった子供は、悲しさに顔を歪ませている。あの女子高生は、げんなりとした様子でうねった髪を気にしているし、あの男性はおろしたての靴が汚れたようで苛立っている。
僕は、やっぱり今日も頭が痛かった。
いつも明るい夏が泣いていた。普段はうんざりするほど暑苦しい奴なのに、こんな姿を見てしまうと心が痛くなるじゃないか。それに毎年こうなんだ。
だけど、明日、もし晴れたら。
きっとみんなの心にも陽が差すだろう。すると、太陽にも負けないくらい眩しい笑顔であふれるんだ。
あの子供が元気に泳いでほしい。あの女子高生は、そのさらさらとした髪を風でなびかせて、あの男の人は、洗ってピカピカになった靴で、元気よく歩いている。そんな姿を見たい。
僕はアイスにかぶりつくだろう。つい食べすぎてしまうから、結局のところ頭痛薬は手放せないだろうけど。
そうして、僕たちを明るく照らしてほしいんだ――明日こそはね。
まだ夏は始まったばかりなんだから。
花咲いて
脳内でけたたましく鳴り響くサイレンが、早く描けと僕を急かす。
なのに描けない。描けない。どうしてか、描けないんだ。
気づけば、真っ二つに折られた筆が、こちらを睨むようにして床に転がっている。イーゼルに固定されたキャンバスは、黒に飲まれて死んでいる。
筆を拾い上げる気力など残っていなかった。キャンバスを取り替える力もなかった。
絶望にも似たなにかが、僕の耳元で問いかけてくる。
――可能性なんて、最初から無かったらしい。
僕の蕾は、開花を知らずにしぼんでいく。そして、埋もれていく。次々と開花する花たちに押しつぶされながら。
黒く塗りたくったキャンバスに、涙が滴る。
諦め方を知っているのに、もがき方を知らなかった。
こうして僕は枯れていく。水も、陽の光も注がれずに。
ただ真っ暗な閉鎖空間で、絶望に涙を流す。
こうして自分を枯らすことしか、もう僕に出来ることは残されていなかった。
日常
君と迎える朝が好きだった。
君と過ごした夜のあと。穏やかで、ささやかで、静かな朝。二人きりの、二人だけの、朝がくる。
パンを焼いて、コーヒーを作って、カーテンを開ければお日様の光が眩しくて。微笑み合いながら、美味しいねって言いながら、朝食を共にする。
君の寝癖を見るのが好きだった。いつもぴょこんとはねているそれが可愛くて、とるのが勿体なかったんだ。
君が出かけるとき、そっと頬に自らの唇を寄せて、反応を見るのが好きだった。いつもしていることなのに、君は決まって赤面するんだ。
あれほどブルーに感じていた朝が、いつの間にかあたたかい色に変わる。君がいるだけで。
君という存在は、きっと私の原動力だ。君がいるからこそ、今の私がある。君が生きているから、私も生きていられる。
君がいなくなってしまったら、私はどう生きればいいんだろう?
そう、ずっと思っていた。考えていた。
君から、離れられなかった。
――だけど、その幸福も不安も、結局は最初のうちだけ。
君を日常の一欠片だと思っていたのが、駄目だった。
大切なものが日常として浸透していくのが、今はすごく怖い。
あれほど大切にしたいと思っていたものでも、当たり前の存在になると、ないがしろにするのが私だから。
君という存在がなくなった今、空っぽの私に価値などない。日常の一欠片がなくなって、すべてが一気に崩れ落ちた。パリン、と音をたてて、その破片が、私に傷をつけていく。
どうしたら、君はまた振り向いてくれる? どうしたら、日常を大切にできる?
今は、ずっと思っている。考えている。
まだ君から、離れられない。