「さよならを言う前に」
永遠の決別はおそらくないと思います。今回のテーマは「さよならを言う前に」だけれども、田坂広志氏の『死は存在しない』を読んだ後では、尚更そう感じます。
あくまで個人的な感想ではありますが、ゼロ・ポイント・フィールドの存在は、この地球上の生命、そして無機物の意識も全てが通じていて、ひとつの宇宙的な意識集合であるように感じています。
地球の人類(現時点では)ひとりひとりの意識がそれぞれに異なるのは、それぞれの肉体の中に閉じこめられているからであり、輪廻転生により、さまざまな人生を経験しています。生まれ変わった時に前世の記憶は失います。稀に(三歳前後まで)前世の記憶がありますが、私の場合、この頃の記憶がよみがえりました。特別なケースだと思います。
つまりゼロ・ポイント・フィールドは、そうした膨大な意識集合体でもあると想像しています。
こうした謎が紐解けるのは、科学と宗教との融合が必要で、あとどれほどの時間が必要なのかは、わかりません。ただ人類は(スター・シードと呼ばれる人も含まれているようですが)意識の目覚めの時を迎えています。
未来の地球がどんな状況かは、わかりません。ただ、核戦争の後に輪廻転生する可能性もあります。また、人類が絶滅した後なので別の新たな知的生命体であるのかもしれません。
私は人類の存続を切に願っております。また、この地球が人類にとって生きやすい環境であってほしいのです。そうした共通の願いを抱いて共に生きていきたい。
この願いは我儘なものでは、ないはずです。
さよならを言う前に伝えたい事は、今生であれ、来世であれ、また巡り会うのです。いま解決できない問題は、さらに難しく過酷な状況となっているでしょう。いま、共に頑張るのか、来世でさらに苦しむのかの違いがあるだけです。また会いましょう!
「空模様」
ほぼお天気の表現として使われる「空模様」。けれど、事のなりゆきとしても使われる。お天気も事のなりゆきも、ままならない。そういう言葉である。
今夜、夫といろいろな話をしていて、人々が求めるのは、安全ではなく、安心なのだという結論に達した。「安全」と「安心」の言葉の差異をよく考えると、そこにあるのは明白な人々の感情である。
いろいろな社会問題も、人々は、完全に論理的で科学的に立証された結果を求めてはいない。対応すべき最善の方法があったとしても、それを実行するのが不可能な場合が、かなりこの世界には存在している。私はようやく未来とは人々の感情、また人々が何を求めているのかで、決まるのだという思いに至った。
悪い予測は、確かに感情的には、なかった事にしたい。そんな未来は想像したくない。しかしデータ予測は冷酷である。対応しなければいけないけれど、未来予測のために努力する人は決してヒーローには、なれない。
いまのこの世界の空模様は、さまざまな国の価値観があまりに多様で、ひとつの(地球全体の)危機的な共有すべき価値観に、なかなか気がつけない国は多い。今はそういう空模様である。
ただ、こういう事に国や民族、宗教など、さまざまな違いをこえて「協力しなければいけない」という、一人一人の意識の目覚めが、地球の未来を変える力になると微かな希望を抱いている。
「鏡」
鏡は何か不思議な存在です。
例えば、天照大御神の御神体は八咫鏡です。
そして、月は鏡のように太陽の光を反射して、夜空に月光を放っています。月光について調べたことがあるのですが、太陽光との大きな違いは、紫外線、赤外線が含まれていない事でした。
美しい鏡として心の中に浮かびあがるのが、モネの『睡蓮』です。その多くの作品が、睡蓮が咲いた池を描いたものですが、池の水面には空、そして雲が映しだされています。
その事に気がついたのは四十代の初めの頃だったでしょうか。二重の衝撃がありました。一つは、その事に長く気がつかなかった自分自身への迂闊さでした。もう一つは、池が鏡の役割を果たしていて、そこに無限の世界の広がりを感じていたモネの深い眼差しです。
『睡蓮』の絵は何度も観る機会がありました。還暦を過ぎても私は、森羅万象のこの世界で、浅いものしか理解できていないと感じる事ばかりです。人とは、そうしたものかもしれません。
鏡とは、誠に正直です。鏡に映る私は老いていて、若い頃、子どもの頃の私は記憶の中にしかいません。しかし、老いてこそ理解できるものもあります。
今後、日本は高齢者が増えてきますが、人は若さや美醜だけでは語りきれないものがあります。そして、生ある限り、どれだけ齢を重ねても進化し続けることができます。成長し続けて下さい。そう鏡のなかの自分に語りかけてみて下さい。
「いつまでも捨てられないもの」
いつまでも捨てられないもの、それは経験である。または記憶かもしれない。捨てられないもの、であるなら、それは「物」であるはずだけれど、私は昭和の生まれなので、戦後の昭和の時代に積み重なった何物かが、いまも心の奥深くにあって捨てられないでいる。それは何かと言うと、認知バイアスである。
私自身、高度経済成長期のあの何とも言えない高揚感のなかで成長してきた。インフレ経済は永遠に続くものだと信じていたし、バブル崩壊して尚、また元どうりの経済発展を夢みていた時期もあった。
いつからだろう。精神崩壊しそうなほどの苦しみから私を救ってくれたのは仏教の「般若心経」であった。そして『方丈記』の鴨長明であった。彼の生き様は私の心の支えとなった。そうした学びの中から、繁栄というものが永遠ではなく歴史的に考えても、その後にやって来るのが衰退期である事を知った。『方丈記』に記されたような時代がやって来るかどうかは、わからないけれど、いまはAIでシュミレーションが可能で正しいデータがあれば未来も見える。
例えば2025年問題は、以前から複数の問題提起がされていた。それは予測可能なものばかりで、昨年あたりから日本社会は、真剣に賢明なる人達の言葉に耳を傾けるようになった。しかし差し迫った状況から始めるのでは、やはり遅い。
ともすれば、悪い予測は後回しになる。当然のことかもしれない。日本に限らず、いま世界は多くの問題を抱えている。その中でも特に温暖化に関しては、どうしても楽観的にはなれない。『方丈記』は短いお話なので、興味がある方はぜひ読んでみて下さい。こうした歴史的事実をどう受け止めるかで、貴方の心にも変化が生まれるかもしれません。
「誇らしさ」
誰にでも心の中にある「誇らしさ」。つまりそれはアイデンティティであるとも言えるのでは、ないでしょうか。自分自身の存在意義をどこに求めるのかは、千差万別で、ひとりひとりに存在していて、同じものはひとつとして存在しないでしょう。普通は人によって複数あるかと思われます。
アイデンティティを持たない人はこの世にはいないと考えると、すべての人を尊敬すべきであると私個人は考えています。この考えにさまざまな矛盾点がでてきますが、ここでは深い思考へ誘うのはやめます。
ここで大切なことは、自分にとっての誇らしさ、それは貴方の心の中にある「善」を追求することです。それは他者との優位性からは生まれてきません。
「善」とは何か?それを追求する方法もまた千差万別でしょう。ひとりひとりに複数の道が見えているはずです。どの道を選ぶのかは、貴方次第であり、運命であるかもしれません。