「通勤1時間は、やはり辛いですね」
「私なんか3時間なんだけど」
そこで上司との会話は途絶えた。続きなんか覚えていない。
昼休みに上司と共に食事を摂っていたが、向こうは疲れた顔をする私に何かを思ったのだろう。私は、てっきり日頃の疲れを労る言葉をかけてくれると期待したが、相手が間違っていた。第一、上司とは気が合わない。通勤時間の長さで相手に対抗するのは、学生が短い睡眠時間を自慢して語るのとまったく同じだ。つまりは幼稚である。
加えて、上司は自宅から会社まで、わざわざ3時間もかけて出勤する理由がてんで分からない。私も子どもなのだ。長い労働の上に長い通勤をする、そこに隠された社会人の事情を、社会人4年目の私は全く知らずにいた。
ただ、普段の上司の愚痴を聞いて、自宅から遠ざかりたかったのではなかろうかと思った。彼女は毎回出勤するたびに、誰かに愚痴をこぼしている。いつもだ。客がいない機会を見計らって、仕事中でも三毒のひとつを吐いている。
家族と上手くいっていないことが上司の悩みらしく、高校生になった子どもは自ら不登校を宣言したとうんざりしていた。パートナーの有無は結局分からなかったが、複雑な家庭事情であることは、愚痴から漂う腐臭で感じた。
私は、この上司のストレス発散に良いように使われて、パワハラを受けた。勤めて一か月もしない内に、私は適応障害になり、元々の精神の弱さも相まって鬱病になってしまった。ただこれは、目に見えた結果だった。
この上司自身が、鬱病にかかっていたのだ。鬱病は心の風邪と言われている。風邪は人に移りやすい。彼女からの理不尽な攻撃を受けたと共に、精神的不安のウイルスをばら撒かれた。
上司は私と出会う前から異常だったのだ。家族でも友人でもない。ましてや、仕事上の関係にすぎない。そんな相手に向かって、「逃げるな」と言えてしまうのは異常である。
図書館にある本の紹介の為に、一般書に不慣れな私は、得意分野である児童書を参考にしようとしただけだった。けれども、上司には仕事を放棄したように見えたらしい。
ただあそこまでドスを効かせた声を出したのだ。彼女の中では、私の言動が他人事ではなかったのかもしれない。だからと言って、怒り任せに二回りも歳が離れた若者を怯えさせるのはどうかと思う。本当に己と向き合っている人間なら、「逃げるな」と他人にも自分自身にも言わない。
散々、己の心に逃げるなと言い聞かせながら、向き合わなかった己自身が、いつも逃げ回っているのではないだろうか。彼女は違うと絶対に否定する、それだけは分かる。
ならば、お前の周りに病んだ人間がいることをどう説明するのか。不安な心を放置して逃げ惑わせ、鬱病という風邪を咳の代わりの愚痴で吐き散らした人間は、いったい誰なのだろう。それでも私ではないと言い張るのか。お前が一番言われたくない言葉を、よくぞ赤の他人に向かって言えたものだ。
お前こそ自分から逃げるな。長い通勤時間を自慢できるなら、遥か遠くまで逃げて行った自分の心ぐらいすぐに連れ戻せるだろう?
(250711 心だけ、逃避行)
祖母は食べることも冒険だとよく言っていた。普段はバナナや蜜柑、林檎しか食べない私に、様々な果物を食べさせてくれた。
ライチの硬い皮を指で剥く気持ち良さとアボカドがフルーツだったことの驚き、何より煮たアンズから漂う芳醇な香りには心を奪われた。
生のまま皮付きで食べるアンズも、まあまあ美味しかった。祖母は、女の人の肉や髪の毛を食べてるような柔らかさだと言って頬張った。
もしかしたら、祖母の中では果肉は皆、人の肉と大して変わらないと思っていたのかもしれない。そんな人が身近にいたから、最近ニュースで問題になっている女性殺傷事件の犯人の動機に納得してしまったのだろうか。
「女の卵巣はイチジクの味に似ているらしいから、どうしても食べたくて殺した」
何十年か前に、国は国民に向けて、果物をいっぱい食べて健康になってくれと食生活の向上を促したらしい。それなら、ゲームのログインボーナスよろしく、国民全員に毎日バナナを一本でも良いから配って欲しかった。
今なんて、バナナ一本で200円だ。高級フルーツの仲間入りが、徐々に目立っていく。そんな状況下でも政府の人々は、必死になって果物を食えと一昔前の情報を流している。腐った蜜柑とは、きっと私たちの見えないところに、ごろごろと転がっているのかもしれない。
(250710 冒険)
「祈りって、最後はこうするんじゃないの?」
彼女は小さな地蔵に向かって白い花を吹いた。地面に落ちたむくげの花の中から、まだ散ったばかりの綺麗なものを拾い上げていたのだ。
「花びらを撒く行為には、どんな意味が込められている?」
「願いだよ。地蔵さんには手を合わせて願いを込めれば、それで十分らしいね。ただ、私の祖母が手を合わせた後、よく花びらを撒いて遊んでいたんだ」
こうやって、と彼女はもう一度、花びらに息を吹きかけた。地蔵にひらひらと花びらが舞う。くるりと弧を描いた花びらの先には、地蔵の微笑みが浮かんだ。
「なるほど、遊びか。もしかしたら、君のおばあさんは、子どもの頃にその遊びを覚えたのだろう」
「多分そうじゃないかな。手を合わせても、本当に願いを聞いてくれたのか分からない。そしたら、名前をちゃんと言って、いつも見守ってくれてありがとう、叶えて欲しい願いがあるから、このお花をあげる。はい、どうぞっていう感じで遊び始めたのかも」
「興味深い話だ。おばあさんの遊びが、孫に当たる君にも伝わっているとは、よほど楽しかったのだろう。もう一度、見せてくれないか。君たち家族に受け継がれた祈りを是非、記録させてくれ」
彼女は照れくさそうに笑って軽く頷いた。彼は慣れた手つきで、胸ポケットから革製の手帳を取り出す。
開いた手帳の頁と見つめる彼の瞳を、彼女は盗み見るように眺めた。鳥の羽のように厚く覆われたまつ毛の影に、瞳が星のように瞬いている。今は好奇心の輝きに満ちている。
彼女の姿を認めた時の瞳の色が気になって、じっと眺めていたが、彼と目が合うとすぐに横を向いた。木陰の下、むくげの花が散っている。彼女は一瞬迷ったが、花を拾い集めて、再び地蔵の前に手を合わせた。
手のひらにたくさんの白い花を乗せて、私は−−です、今日も見守ってくれてありがとうございます、私の想いが聞こえますか、聞こえたらあの人にも教えてください、そしたらこの花を地蔵さんにあげましょう。
「はい、どうぞ」
彼女は、胸の奥にあるたましいの底から息を吹いた。
(250709 届いて……)
距離はおよそ5メートルだった。あの頃から眼鏡をかけていたので視力が悪かったが、相手の微笑みを間近で見たような記憶が残っている。
小学生の頃、いつだったか。縁側でシャボン玉を吹いて遊んでいた。一人でも楽しかったから、時間も思考も現実も何もかも忘れて、ストローで石鹸液の泡を膨らませて空に飛ばした。
自宅の斜め向かいにある隣の家では、何やら大勢の人が集まっていた。荷物をトラックに運んでいるので、引越しの作業をしているらしい。かと言って、その住人全員ではなく、玄関先に立っている女性が旅立つらしい。別に隣の家の者と挨拶さえもした覚えがないので、全部憶測にすぎない。ただ目の前の一連の流れを見て、そう思っただけだ。
その時の私は、忙しなく荷物を運ぶ人々を眺めて、何だがお祭りみたいだと一人で盛り上がった。彼らに届くように、シャボン玉をぷうぷうと吹きかけた。シャボン玉がたくさん出れば出るほど、人々の影が虹色の玉に反射して活気が湧いたように見える。私は頬を膨らませて、もっともっとシャボン玉を吹いた。
ようやく、シャボン玉が女性の目に入ったのだろう。彼女は私の姿を認めて笑った。子どもの幼い遊びを慈愛に満ちた瞳で見守っている。私は彼女と視線を交わして、行ってらっしゃいと挨拶代わりにまたシャボン玉を吹いた。
今思えば、あの女性の立場から見たら、私のシャボン玉は門出を祝った花吹雪のようなものだったのだろう。
何故か、彼女の視界から見たシャボン玉の景色が脳裏に映る。あどけないと言えば聞こえがいい。やけに馬鹿な顔をした子どもの私が、無邪気にストローを咥えて泡をぷかぷかと吹かしている。憎たらしいぐらい幸せそうだ。
(250708 あの日の景色)
彼女は足元に転がっていた小石を拾った。小石をじっと見つめる。まるで石の中に目があり、視線を交わしているようだった。そして、その小石を両手のひらに包み込んで、顔に近づける。彼女は瞳を閉じて、真っ直ぐに立って祈った。
ガス臭う夜風が急に強く吹いて、彼女の身体をぐらぐらと揺らそうとする。けれども、彼女は動じない。手のひらの石の重みに委ねているのか、先ほどから固まったままだ。
今触れたら、夜の静けさを吸い込んだ石のように冷たいだろうか。それとも、昼間の蝉の声が染み込んで温かいだろうか。
彼女の身体は全く動かないが、腕の産毛がふわふわと風に乗って揺れている。小麦色に焼けたうなじは汗ばんで、星のように煌めいている。白く輝く汗は一筋の光を残して、さらりと背中に流れていった。
遠くから、車の滑るような音が響いて、さっと消えていく。暗い周囲の草木から息づかいするような気配を感じる。ようやく、彼女が顔を上げた。更に夜空を見上げて、首を伸ばす。
手のひらを開けて、小石に口付けをした。長い口付けだった。小石はすっかりと彼女の温もりに満たされている。その温かさに、彼女と小石が混じり合って一つになったような錯覚を彼女自身覚えた。
手放すのが惜しいと思ったその時、彼女は白く霞む星空に向かって小石を放り投げた。空気を切る音がするも、その後地面に落ちた音が響かなかった。
どこに落ちたのかと、彼女の祈りをずっと見ていた友人が辺りを見回す。しかし、汚れた街灯の下では見つけられなかった。
「本当に星になったの?」
友人の問いに、彼女は微笑んだ。そうだったら良いねと電気の光よりも強く輝く一番星を見上げた。
(250707 願い事)