今日という日をどこかに行って欲しくなくて、必死にスマートフォンのメモに書き残しているが、書けば書くほど、自身の記憶力の浅はかさに嘆き、今日という日を全て描きれずに悔やむも、それでも何か書かねばならないと私の指は止まらず、かと言って疲れて、独り言に文章にならない舌足らずな言葉をボロボロとこぼしていき、記憶の片隅にある鮮明だった思い出を引っ張り出そうにも、その描写に見合った言葉がまず出てこないので、どんどんと思い出は色褪せていき、確かこうだったかと自分の記憶を怪し始めるも、本さえ読めぬ日があるから、自分の記憶も読みきれぬ日もあるだろう、けれども、そんな日が今日であって欲しくなかった。
(250622 どこにも行かないで)
「いつかは先輩の背中を追い越してみたいんだ」
県大会を一週間後に控えているので、本野は今にも走り出しそうなほどに高揚していた。向かいの席にいる照井は、つまらなそうに耳を傾けている。
「はあ、そう……。青春しててキラキラしているね。私なんか、しょっちゅう父親の背中を蹴りたくてうずうずしてる」
「またストレス爆発したの?」
「あいつ、冷蔵庫にあった私のバナナを勝手に食べたんだよ。部活帰りに食べようって、とって置いたのに。そのぐらい自分で買ってこいよって、腹が立って空になった高級ウイスキーを全部ベランダから叩き落としてやった」
照井は話しながら、爪先を何度も何度も机に突っついた。彼女の怒りの鼓動が爪先に響く。指や手の甲には、小さな窪みがいくつもできていた。
また苛立って自分の手を噛んだのかと本野は察した。照井の家庭不和を何度も聞いたが、子どもに手を上げない親であり、子どもを自傷癖に陥れる親であるとようやく理解した。
「本当に蹴っちゃったら?」
照井は嫌そうな顔をして話題を逸らした。持っていた紙パックのストローに口を付けるも、またも不機嫌になった。
「これ、キウイが入ってる割には全然味しないじゃん」
「思っていたのと全く違う?」
「うん、美味しそうだなと思った自分が馬鹿だった」
随分と卑下するものの言いように、本野は黙ってしまった。沈黙が流れるも、机の下から足の動く音が聞こえる。本野はずっと走るように何度も踵を上げ下げしていた。
陸上部の三年生と共に走れるのは、県大会で最後だ。その最後の時に、先輩の須々木を追い越したいと闘争心に燃え、妄想に耽っていた。ただ、あっという間に試合が終わったらどうしようと不安に顔を青ざめる。
(250621 君の背中を追って)
好き、自分で選んだものは当然好き。
もちろん嫌いにもなれる。
愛するも憎むのも表裏一体だから。
嫌い、勝手に好きと決めつけられたものは当然嫌い。
もちろん好きにはならない。
そもそも私の好きを勝手に決めるお前はいらない。
(250620 好き、嫌い、)
中学生の頃に、同級生がアジサイの下には、よく死体が埋まっているとか、花の香りは死肉と同じとか言っていたような気がする。ともかく、雨露に濡れたアジサイは死臭がすると決めつけて花を泣かしていた。
その言葉の影響が私の中では、どうも強い印象を受けたらしい。また当時は、豚の眼球から水晶体を取る理科の実験をした。担当の先生曰く、豚の内臓や肉は、人間のものに近いらしい。水晶体の摘出に成功した生徒はいなかったが、体験と知識を埋め込まれた。
おそらく、どちらも梅雨の時期に起こった出来事だったから、私の中では、アジサイと豚肉が寄り添っている絵面が、自然と浮かび上がってくるのだ。
正直に言って、違和感がない。くすんだ青いアジサイが雨粒を滴らせている傍で、淡い桃色の豚バラ肉は、アジサイの葉に何枚もぶら下がって、死してもなお美味なる脂を照らしている。
未だに、本当のアジサイの匂いを嗅いだことがない。かと言って、死体の臭いも知らない。葬式後には髪の焼けた臭いが付くらしいから、それがいわゆる死臭なのだろう。
ただ結局は、豚肉を焼けばすぐ分かるのではないかと、アジサイの脳味噌のような花束と豚肉をごっそりと地面に落として思考を止めた。
(250619 雨の香り、涙の跡)
自分にとって美味しいものは、身体に馴染みやすい。自身の体温に溶けていく、ちょうどいい温かさと柔らかさが好ましい。舌の上に置いて、口内や上顎、歯にも溶けて馴染んで、それこそ自分の身体の一部となるような相性の良い食べ物は美味である。
そんな美味なるものの食感を表現するなら、ほどける糸だ。固体または液体だったものを口内に含んで噛み締めた時に、私の身体になる糸が現れる。
しゅるりと歯の隙間から漏れ、舌の上に転がり、上顎をくすぐらせて、頬の裏側を撫でていき、喉の奥へと伸びていく。胃の中に落ちれば、いくつものの糸は花開くように広がっていく。およそ半年もかけて、糸を伸ばしていき、私の内臓を包んで馴染んで溶けて消えていく。
注がれた酒の流れを紐の如きと詠んだ俳人がいたが、読んで字の如く、美味しいものは案外、糸や紐に近いのかもしれない。
(250618 糸)