そう言って、どんなにも勇気を出して一歩進んでも、最後に行き着く先は黄泉比良坂。
桃の木を横切り、竹の群れをすり抜け、葡萄の蔓を潜り抜けてしまったら、腐臭と死臭が漂うイザナミと対面だ。身体にへばりついている八つの雷たちは、相変わらずやかましい。くしゃみもするし、咳もするし、痰も吐くし、豚のような笑い声もする。
イザナミなんか口から脱糞している。悪魔の製造に忙しい。そんなだから、私を騒がしい雷の豚児どもと見間違っても致し方ない。あちらは目までも腐っているのだ。自分の醜い姿さえも見えていない。だから、私が文字通り、現世に後ろ髪を引かれていることにも気づいていない。
やはり、こんな穢らわしい場所から出ていくべきなのだ。いやそれでは、また身を滅ぼしてしまう。ここから出ていっても良いと確信するまで、耐えねばならない。
いつかは現世に通ずる私の髪が、イザナギに見て触れて、願わくば、三つ編みにして欲しい。
自らをナイル河の一滴と例えたイザナギに、どんな道であれその道を歩み続けるイザナギに、そして、人間に生まれたのだから、本当の耳と目で聞いて見て生きよと言うイザナギに、私のたましいと繋いでいて欲しい。
黒にも茶にも赤や金、更に白にも輝く私の髪をどうぞ編んでください。私の良き父たちよ。
(250606 さあ行こう)
……波紋が煌めきに瞬く。
「水たまりの底に映る空のような青い瞳ですね」
「酸性雨と排気瓦斯で、すっかりと穢れてしまった色だろう? 君の目が潰れちゃう前に、早く僕の目の前から立ち去った方がいい。汚れちゃうよ」
波紋は淀めいて涸れゆく……。
(250605 水たまりに映る空)
人が花や植物に癒されるのは、「それが無関心だから」とジョルジュ・サンドが言ったらしい。
私が中学生の頃に見かけた同級生に対しても、そのような感情を向けていた。グランドの隅にある、木々の側で、長身の彼も木のように真っ直ぐに立っていた。陸上部だった彼は、毎日部活に励んでいたのだろう。照りつく太陽に焦がされて、黒い肌を輝かせていた。青春に生命は溢れ、汗さえ玉のように煌めていた。
黒い常緑樹みたいな人だなと思ったから、つい「あの人、格好いいね」とぼやいた。隣にいた友人は、急に慌てふためく。そして、騒ぎ出した。
「好きなの? ◯◯が好きなんだ!」
私の意図が向こうに伝わらなかったと気づいた時には、もう遅かった。
思春期の子どもたちの恋なる噂は、馬と鹿が駆けていくように、すぐに伝わってしまう。黒い常緑樹の彼の耳にも、あっという間に届いた。私は飽きれ果てて、彼を見向きもしなかった。見ることも出来なかったというべきか。
私の見た目が麗しい少女だったら、相手の目を見つめながら、真意は違えども好意を持っていると彼に示せられただろう。だが私は、豚みたいな顔と大根のような足を持った醜い子どもだった。人に見られること自体、嫌だった。
だから、見た目なんて気にせず、誰にも彼にも無関心でいてくれる草花を観察するのが好きだった。その観察が人間でも出来る、と高を括った中学生の私は、やはり馬鹿だった。頭と性器が連動している野次馬に囲まれた学校は、実に窮屈であった。黒い常緑樹の彼も、気がついたら、その馬どもの中に群がっていった。
植物を人に例えて愛でる文化がありながら、人を植物に例えて愛でることさえ許されない環境に、私はとにかく息苦しかった。
人が相手のことをどう見ようが勝手にしてくれ、と迷える羊のように、いっそのこと見放して欲しかった。
(250604 恋か、愛か、それとも)
約束だよと父に言っても、
なんで俺なんだと言って、
年季あるウイスキーを眺めながら
缶ビールを飲んでいる。
約束だよと母に言っても、
お前と約束できる人としなさいと言って、
洗濯かごとゴミ箱と包丁をバンバンと鳴らして
口からクソを漏らしている。
兄弟もいたと思うが、
血を分けていたはずなのに
手を繋いだこともないから、
約束の指切りさえもできない。
祖父も祖母もどっちも死んだ。
仕方ないから、私のアニムスと約束をした。
いつか、一族の終の花となって散ろうね。
アニムスは嫌だよ死にたくないよと泣いている。
誰も私と約束をしてくれないから、
自分の小指を全部摘んでねじって
砕いて潰して引き千切って叩きつけた。
白い指から赤い肉が花のように散っている。
(050603 約束だよ)
傘を開いて心開いて男は微笑み、
なんと美しきかなとささやけば、
骨に触れて頬染めて女も微笑み、
恋人の骨で組みましたと呟いた。
カラカラと赤い傘も笑っている。
(250602 傘の中の秘密)