人が花や植物に癒されるのは、「それが無関心だから」とジョルジュ・サンドが言ったらしい。
私が中学生の頃に見かけた同級生に対しても、そのような感情を向けていた。グランドの隅にある、木々の側で、長身の彼も木のように真っ直ぐに立っていた。陸上部だった彼は、毎日部活に励んでいたのだろう。照りつく太陽に焦がされて、黒い肌を輝かせていた。青春に生命は溢れ、汗さえ玉のように煌めていた。
黒い常緑樹みたいな人だなと思ったから、つい「あの人、格好いいね」とぼやいた。隣にいた友人は、急に慌てふためく。そして、騒ぎ出した。
「好きなの? ◯◯が好きなんだ!」
私の意図が向こうに伝わらなかったと気づいた時には、もう遅かった。
思春期の子どもたちの恋なる噂は、馬と鹿が駆けていくように、すぐに伝わってしまう。黒い常緑樹の彼の耳にも、あっという間に届いた。私は飽きれ果てて、彼を見向きもしなかった。見ることも出来なかったというべきか。
私の見た目が麗しい少女だったら、相手の目を見つめながら、真意は違えども好意を持っていると彼に示せられただろう。だが私は、豚みたいな顔と大根のような足を持った醜い子どもだった。人に見られること自体、嫌だった。
だから、見た目なんて気にせず、誰にも彼にも無関心でいてくれる草花を観察するのが好きだった。その観察が人間でも出来る、と高を括った中学生の私は、やはり馬鹿だった。頭と性器が連動している野次馬に囲まれた学校は、実に窮屈であった。黒い常緑樹の彼も、気がついたら、その馬どもの中に群がっていった。
植物を人に例えて愛でる文化がありながら、人を植物に例えて愛でることさえ許されない環境に、私はとにかく息苦しかった。
人が相手のことをどう見ようが勝手にしてくれ、と迷える羊のように、いっそのこと見放して欲しかった。
(250604 恋か、愛か、それとも)
6/4/2025, 1:04:05 PM