少女は肩にかけた重いトートバッグに触れる。両手でそっと紐を包み込んで、そのまま握り締めた。
「あの、自習できる机ってありますか」
「児童室では自習できませんよ。他の階に、空いている机はありましたか」
少女が首を横に振ると、カウンターの向こうにいる図書館のスタッフは、残念そうな顔をした。彼女は相手の表情を察して、自分が勉強できる場所はないと理解し、俯きながら去って行った。
勉強熱心に見せかけてスマートフォンに夢中な学生と自分の居場所を失った高齢者、新刊の情報しか漁らないくたびれたビジネスマンなどなど、そのような利用者は受け入れるのに、勉強がしたい小学生一人さえも受け入れられないとは、何と恐ろしい現実であろう。
私は自分だけの図書館が欲しいと夢見ているが、やはり図書館は人類すべてのものだ。
あの少女に、勉強できる場所を提供したいと私は願ったが、その願いを叶えるには人情だけでは現実にならない。時間やたましいさえも消費させる社会に生きるには、どうしても金で問題を解消させるしかない。私の弱さも、臆病も、諦めも。
結局は、自分にはできないと虚な目で何事も無かったように振る舞ってしまう。
(250523 そっと包み込んで)
絶大な欲望を目にした今日の私は、昨日の私と明らかに違う。
『本は読めないものだから心配するな』という本で、管哲次郎は語った。日本の英語教育に足りないものは、ジョン万次郎のように、その地に生きる為の知識と言語をよく学ぶ知的欲求である。これが「絶大な欲望」だ。
偶然にも、京都旅行の宿泊先の店主が、そのような知的欲求に生きる人であった。来日してきた旅行者ともっと深い話をしたい、彼らがすでに知っている言葉以上のことを知りたいと各国の言語を習得した。台湾語や中国語、英語やフランス語、そしてスペイン語。
小柄な店主の身体の中には、世界の国々の言葉でたくさん詰まっていた。彼は、ドラえもんの道具で何が欲しいかと尋ねられたら、4次元ポケットそのものが欲しいとに強欲に答えた。
そもそもこの店主は、あらゆる言語を身につけた後は、音楽で人々と語りたいとハーモニカやギターを独学で身につけた人だ。4次元に集ったすべての道具を使いこなす知識欲がうかがえる。
音でも言葉を交わせる、そんな自分たちのバンドの曲を聞いて欲しいと、東西の老若男女問わず、多くの人たちの前で音楽を奏でたという。
言葉の無限の可能性を信じた者は、音そのものにも言葉があると信じて歌うようである。絶大な欲望の先をもっと見たい、そんな人と出会えた良い旅であった。
(250522 昨日と違う私)
日本と西欧の太陽の印象はやはり異なる。太陽神の性別が違う点で、そもそもの見方が違う。
西欧の太陽神は父性だ。父性には全てを切り離す力がある。sunriseの単語には、光線が生き物を突き刺してくる印象がある。
逆に、日本の太陽神は母性だ。母性には全てを包み込む力がある。朝日を浴びると、まるで母親に抱きしめられて、おはようと言ってくれるような心地良さを覚える。
特に今、明かりが一つしかない日本家屋に私はいるが、すでに太陽の光が恋しい。谷崎潤一郎の語る陰翳礼賛を楽しみたい気持ちはあるが、電気の光に慣れてしまったこの目には、影が恐ろしく見え、寂しさを感じる。
そのような感情が、およそ100年前の生活には当たり前のように存在していた。そして翌る日、地平線から昇る朝日を浴びて、孤独と恐怖に打ち勝った喜びを全身で味わっていたのだろう。
私は明日、そんな体験ができるのだろうか。今日も目覚まし時計が鳴っているな、と機械音に従って起き上がりそうだ。
(250521 Sunrise)
二十数年前の塩竈の冬空、白い星々に埋め尽くされた夜空は、地面に降り積もった雪よりも遥かに美しかった。あまりの白の美しさに、波の花が波飛沫とともに、うっかりと空まで弾け飛んでしまったと物語っても不思議ではない。
私の瞬きに合わせて、チカチカと光が点滅する。数光年、数十光年、数千光年の星々が私と交信している。
私と同じ年の星がいたかもしれない。全て同じ星のように見えて、色々な星の輝きがあった。星と人間、別の生き物のようで、同じ生命体でもあった。
目を閉じなくても、あの夜空を思い描ける。私の瞳の中に星空は溶けていった。瞬きを繰り返し、まつ毛で何度も星空をかき混ぜて虹彩に焼き付けた。空と私が一つになった瞬間だった。唯一の瞬間だ。
この二十年で、空はすっかりと汚れてしまったから、何度瞬きでかき混ぜても、突き刺す煙と異常な陽光に目が痛む。溶けてしまいたい空は、どこへ行ったのか。尋ねたい星々も、害する光の洪水に呑まれてしまった。
(250520 空に溶けた)
そんな歯切れの悪い言い方をされたら、
なにも書けません。
どうしてもというのなら、
寝ればどうにでもなります。
まあ寝ても覚めても眠いのが人間の性でしょう。
結局どうしてもと言ってしまって、
己の満たされない欲求を寝かしつけれず、
先に寿命が参ってしまうでしょうよ。
(250519 どうしても……)