ただ君だけが見てほしい。
ぶつ切りにされた私の肉を。
鍋の中で炒められた私の肉を。
他の食材に煮込まれた私の肉を。
塩胡椒香辛料をふられた私の肉を。
どろどろのスープに崩れた私の肉を。
洪水のように白い皿に溢れた私の肉を。
そして飢えた私に貪り食われる私の肉を。
これが孤独を舐め尽くす唯一の方法である。
(250512 ただ君だけ)
『即興詩人』のように、舟の中で寝転んでみたいものだ。確か、海に通ずる洞窟の中で舟を浮かべていたはず。
天井から滴り落ちる水滴を星々に見立てて、横になりながら眺めていたい。そうして、洞窟の奥へ奥へと向かって行き、入り口の光が徐々にか細くなっていくのを見届けていく。
洞窟の中で舟に流されながら奥へ行く感覚は、どことなく胎内巡りを彷彿とさせる。ちょうど頭を先にして寝転がっているから、このまま産道へと導かれていくだろう。
だが私は天邪鬼だ。もう人間の赤子なんかになりたくない。アヌンチャタごっこはおしまいだ。舟をひっくり返す。私は逆さまになった舟の中に閉じこもった。
塩辛い湿気がこもる暗闇の中、揺れる波間から雫が飛び散っていく。ちゃぷちゃぷと水音が舟の中に響いていった。私の耳の中に、海水が入り込んでいく。海の静寂しか聞こえない。
舟の板の隙間から白い輝きがちらつく。壁を隔てて見る景色は、濾過されたように綺麗だ。そう思った時には、私は水面の下に沈んでいた。もう何も見えない、何も聞こえない。
逆さまの舟は、真っ暗な洞窟の奥へ奥へと流れていった。
(250510 未来への船)
小さい頃に、森へ出かけた覚えがある。家族みんなで車に乗って外出したのだろう。だが、何故森に向かったのか覚えていない。そもそも、本当に森に行ったのか分かっていない。
夢現か、木漏れ日さえもない暗鬱な森林の下、私がはっきりと覚えているのは、道路のそばにあった猫の死骸だ。毛皮は破れ、赤黒く変色した内臓から白い骨がのぞいている。車に轢かれたのだろうが、傷跡がどうも何かの歯形に見えた。
「ライオンに食べられたかもしれない」
幼かった私は本気でそう信じた。私の中で、森に潜む恐ろしい生き物はライオンしかいなかったのだ。
近くにいた母親に言ったかもしれないが、向こうの返事を覚えていない。父親もいたと思うが、本当にいたのか疑わしい。二人の姿形が霧かがって見えないし、声も聞こえない。だから余計に、私のむなしい声が静かな森の中で響いて、脳裏に焼きついてしまった。
結局、猫を弔わなかった。広大な森林の影に覆われた猫の死骸は、やがて蛆虫に食われて黒々と溶けていき、地面と同化して消えていったのだろう。
寂しいとは思わない。むしろ、人知れず自然に見届けられて散っていく様は実に美しい。私も森の奥にある道路の端で倒れたら、あの猫と同じく死んでいくのだろう。消えていった小さなたましいに、わずかな希望を見出した。
遺灰を海に流すのもいいが、森に撒くのもいい。生きるも死ぬも勝手次第と言わんばかりに、黙する黒い木々に見下ろされて包み込まれてみたい。
(250509 静かなる森へ)
あなたの夢をかいてくださいと先生に言われたので、
クーピーでまっ黒にぬった紙を出しました。
これは夢ではありません、と先生におこられました。
まっ黒な夢は、よくねむれている良いことなんだよ
おじいちゃんにそう教えてもらったのに、
先生にバツをつけられました。
(250509 夢を描け)
とうとう彼女は爪先立ちになって、腕を伸ばした。あともう少しで、青い実を掴めると思った時には、震える足先に合わせて指先も震え出した。
青い実しか見えていない彼女の横顔を、僕はじっと遠くで眺めた。彼女は爪先さえも青い実に届かず、もどかしさに歯を噛み締めている。歯軋りに合わせて眉間に皺を寄せたが、木漏れ日に当たる額の白い輝きに思わず目を細めた。
突き上げた丸い顎から伸びていく白い首は、実にしなやかだ。胸や腹まで沿って身体に曲線を描いている。単なる曲がった線ではない。そよ風と木陰、それに彼女の鼓動と神経に身体が揺れ動いている。
その動きがよく分かる手先は、ずっと眺めていても飽きない。未だ実を取れずにいるから、広がる手のひらは白い蓮のようにずっと咲いている。影と陽光が繰り返し明暗を生み出すたびに、花は極彩色に咲き乱れていく。このまま、あの実を掴めずにいればいいのにとまじなってみた。
「ねえ、お願い。あの梅の実を取って」
「梅の実なんてどこにあるんだい」
彼女は不機嫌になって、せせら笑う僕に振り向いた。
「どこって、私の目の前にあるじゃない」
「それはアンズの実だよ」
僕は仕方なく椅子から立ち上がって、彼女のそばに近づいた。少し腕を上げて、アンズの実を指で摘む。硬い実から生える柔らかな産毛は、何度触っても心地が良い。
「私も触りたい」
「君のこめかみと同じ感触だよ」
「はあ、その実を取る気はないのね」
「自然と落ちたものを拾ってあげたほうがいいよ。君も、そうやって僕をすくってくれたじゃないか」
木陰から一筋の光が差していく。照明が当たったように、僕の姿は光に包まれた。
彼女は眩しそうに目を細めて微笑んだ。そういえばそうだったと思い出したかのように、僕の腕を掴む。アンズの実から離れた僕の指に触れて満足したのか、そのまま手を握ってくれた。
(250508 届かない……)