林のはしっこ、林縁と呼ばれるこの境界線は夢現のようだ。人家に近い場所は明るく、色とりどりの花が咲き、鳥は悠々とさえずっている。林の奥は木々に囲まれて暗い。林縁から見ても、林の影が幾重にもなって真っ暗だ。
そんな暗闇の前にポツンと花が咲いていたら、まるでともし火のようだ。青い炎が燃え上がっている。赤よりも静かに熱した瑠璃色の炎だ。サントオレアが茎を真っ直ぐに伸ばして、細やかな花びらを柔らかく広げている。
不意に、真っ黒なめしべが瞳のように見開いた。目が合ったと思った時には、サントオレアの向こう、暗い林の奥から何かが横切った。
ゆったりとした足取りで、獅子が林の中を歩いている。あちらは風が吹いているのだろう。たてがみが風になびて、月光のように淡く輝いている。暗闇の中、星の粉を煌めかせて振りまいているようだ。
獅子は、ただ真っ直ぐ見つめている。足元にあるだろう草花に目もくれず、ひたすらに地を踏んでいる。獅子と距離を置いているが、私が立っている林縁まで獅子の足音が聞こえてくる。そう感じた。足の裏で地面を感じ取る獅子の歩みが私の耳には聞こえる。自分らしく歩める健やかな生活に喜ぶ獅子の笑みも、林の影から浮かんで見えてくる。
私は獅子に微笑み返した。すると、サントオレアと同じ瑠璃色の瞳が私を認めた。
「何もかもよくぞみつめて生を踏む君が足あまり健やかなれば」
サントオレアの真っ黒なめしべが瞼のように下ろした。林縁のそばに立つ私を太陽の光が照らす。眠りから起き上がったように、私は息を吸い込んだ。草木の揺れる音、花の甘い匂い、林の奥から吹く冷たい風。
かすかに空気が震えた。産毛がとらえた振動は、やがて鳥肌を立たせ、神経までも震わせた。
脳の後ろに電流が走る。いや獅子が駆けていく。林の奥へ奥へと走っていった獅子が、誰の目や耳にも届かない暗闇の中で吠えた。一度きりだったが、私の耳にはその遠吠えが聞こえた。私の目には咆哮する獅子の姿が見えた。
緑陰の中、木漏れ日のもと、獅子は梢の間から覗く青い空の瞳に向かって呼んだ。当然、青空は木霊を返した。
(250417 静かなる情熱)
映画のマルセルが、親しい人たちの会話を壁越しで聞くのが心地良いと言ってくれたが、私にはそれでもやかましく聞こえて煩わしい。
私は山奥を訪れて、風に揺れる木々の音を聞いていたい。虫の音が涼やかな晩秋のくれないの山に行きたい。
遠くにいる人々の声を運んだ風が、木々の間をすり抜け、草木を揺らし、木の葉を震わせる。紅葉とした山々から鳴り響く木の葉のささやきに耳を傾けるのが、私にはちょうど良い。
(250416 遠くの声)
こ
の
春
も
血フ
しァ
ぶル
きハ
散|
らド
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チ恋
ュ実
|ら
リず
ッ
プ
(250415 春恋)
だんだんと子どもしかいない世界になっていき、今の世界よりも異世界に生まれ変わりたいという大人が増えては、この世に生まれる赤ん坊が減っていく。
やがては、母親の膣に向かって「お前はこの世に生まれたいか、異世界に生まれたいか」と尋ねる物語が生まれるだろう。
この世界に飽きれたのなら、不思議の国に落ちていけば良いじゃないと、墓石よろしく高層ビルから飛び降りて夢の中に入る子どもは、もうすでにいるかもしれない。
ぼんやりとした不安なんかよりも、漠然とした不穏を知りたくて、自ら首を絞める子どもたちは、てるてる坊主の生まれ変わりか。明日天気になれと願えば良いのに、求めるは親よりも不特定多数からの称賛と肯定だ。仏さえも思わず、蜘蛛の糸を断ち切りたくなる餓鬼の欲求だ。当然、この世に転生する子どもの魂は消えていくだろうよ。
大人の鏡になってくれる子どもがいない世界にいったい何の価値がある。自分の中に集めたい世界はどこだ。どこに消えてしまった。
ディストピアの未来図を描いて、そんな展開を現実で起こさないようによく見て学べというが、本当に起こりそうで恐ろしい。
だが、たとえ大人がいる世界が滅んでも、子どもの耳で崩れていく音を聞けば、雨音のような心地良さを覚え、一種の音楽となって鳴り響く。崩壊のリズムから芸術が生まれるだろうよ。
(250414 未来図)
お家の中にある二階の小窓から、手のひらが出てこないかな?
真っ白な手が、そっと小窓から伸びてきて、手のひらの花びらを一階の玄関に落とす。ひとひら、ふたひら、ひらひらと赤い花びらが落ちていく。
なんの花が良いだろうね。ちょうど、椿の花が見ごろだからそれにしよう。白い手が一枚一枚と丁寧に花びらを抜いたから、小窓から落ちる椿はひとひらずつ散っていく。綺麗だろうね。椿は、首が落ちるようにころんと散っていく。一枚ずつ舞い降りる椿の花びらを見るのは新しいね。
花びらをよく見たら、黄色いめしべがくっついている。花びらに隠れた雨粒が丸く潤っている。真珠を砕いて粉にしたような煌めきがある。新鮮な内臓みたいで脈打っているようだ。
椿は肉厚な花だからね、それに赤いから血脈が透けて見えるよ。まるで生きているようだ。息づく椿なんて、小さな生き物みたいで可愛いね。
落ちた花びらが、一枚一枚床の上に集まって、やがては一つの肉塊になっていくよ。これは肝臓かな、腎臓もあるし、胃腸も連なっているし、ああこれが椿の心臓か。赤と黒が入り混じって、今も鼓動を鳴らしている。どくどくと手が温かくなって心地いいね。ばくばくと指先が痺れて気持ち悪いね。
もっと触ってみたいかい。小窓の手のひらは、椿の花びらを落とさなくなった。花がもうないのだろうよ。
いや、小窓から手が出てきた。淡くて白い手が何かを握っている。そっと手のひらを開いた。ゆっくりと下に向けて落とした。ころんと椿の花が床に転がった。
なんと真っ赤に大きく咲いた椿だろうか。真っ直ぐに立つめしべは、黄色いくちばしと言ったところだね。思わず、口付けをしたくなる。なにか、音が聞こえないかい。
ああ、ごろんと、なにか、なにかが、落ちた、落ちてきたね。早すぎて影しか見えなかった。なんだろうね、何が落ちてきたのだろう。影しか見えないな。床の上に、真っ黒に広がった影がじわじわと滲んでいく。
おや、人の髪の毛のようだ。髪の毛が椿の上に落ちた。長くて黒い髪の毛の間から、椿の花びらが飛び散っていた。毛先は黒い蛇のように、花びらを食い散らしている。
びちゃびちゃと音がしないかい。水の音、舌がねぶる音、喉がうごめく音、歯が噛み合う音、息の音、人の声がする。ごろんと首がこちらを振り返った。黒い髪の毛に絡まった顔は、椿の花びらで真っ赤だった。色白の女は、じっと見つめて、口のはしについた黄色いめしべをぺろっと舐めた。
バタンと小窓は暗闇に閉じられた。
(250413 ひとひら)