お家の中にある二階の小窓から、手のひらが出てこないかな?
真っ白な手が、そっと小窓から伸びてきて、手のひらの花びらを一階の玄関に落とす。ひとひら、ふたひら、ひらひらと赤い花びらが落ちていく。
なんの花が良いだろうね。ちょうど、椿の花が見ごろだからそれにしよう。白い手が一枚一枚と丁寧に花びらを抜いたから、小窓から落ちる椿はひとひらずつ散っていく。綺麗だろうね。椿は、首が落ちるようにころんと散っていく。一枚ずつ舞い降りる椿の花びらを見るのは新しいね。
花びらをよく見たら、黄色いめしべがくっついている。花びらに隠れた雨粒が丸く潤っている。真珠を砕いて粉にしたような煌めきがある。新鮮な内臓みたいで脈打っているようだ。
椿は肉厚な花だからね、それに赤いから血脈が透けて見えるよ。まるで生きているようだ。息づく椿なんて、小さな生き物みたいで可愛いね。
落ちた花びらが、一枚一枚床の上に集まって、やがては一つの肉塊になっていくよ。これは肝臓かな、腎臓もあるし、胃腸も連なっているし、ああこれが椿の心臓か。赤と黒が入り混じって、今も鼓動を鳴らしている。どくどくと手が温かくなって心地いいね。ばくばくと指先が痺れて気持ち悪いね。
もっと触ってみたいかい。小窓の手のひらは、椿の花びらを落とさなくなった。花がもうないのだろうよ。
いや、小窓から手が出てきた。淡くて白い手が何かを握っている。そっと手のひらを開いた。ゆっくりと下に向けて落とした。ころんと椿の花が床に転がった。
なんと真っ赤に大きく咲いた椿だろうか。真っ直ぐに立つめしべは、黄色いくちばしと言ったところだね。思わず、口付けをしたくなる。なにか、音が聞こえないかい。
ああ、ごろんと、なにか、なにかが、落ちた、落ちてきたね。早すぎて影しか見えなかった。なんだろうね、何が落ちてきたのだろう。影しか見えないな。床の上に、真っ黒に広がった影がじわじわと滲んでいく。
おや、人の髪の毛のようだ。髪の毛が椿の上に落ちた。長くて黒い髪の毛の間から、椿の花びらが飛び散っていた。毛先は黒い蛇のように、花びらを食い散らしている。
びちゃびちゃと音がしないかい。水の音、舌がねぶる音、喉がうごめく音、歯が噛み合う音、息の音、人の声がする。ごろんと首がこちらを振り返った。黒い髪の毛に絡まった顔は、椿の花びらで真っ赤だった。色白の女は、じっと見つめて、口のはしについた黄色いめしべをぺろっと舐めた。
バタンと小窓は暗闇に閉じられた。
(250413 ひとひら)
朝起きて、いつもと変わらない風景に喜んでくださいと能登半島の人は言ったが、結局人々にその歓喜が伝わらなかった。
住宅から家族が離れ、近くのマンションも全員が立ち退きされて、そこら一帯が解体された。一カ月も崩壊する建物の地響きが続いた。工事の騒音までも、いつもの日常を掻き乱す。食器棚からコップと皿が、毎日のようにガチャガチャと耳につんざく悲鳴を上げる。騒音にうるさいなとぼやく言葉が最もうるさい。
解体するのは、当然外国人労働者だ。長年、日本人の住民が溜めに溜めた埃と塵と生活臭を崩して壊してならしていく。勝手に建てて、勝手に出て行って、勝手に壊す。そんな日本人の尻拭いをさせられる彼らの嘆きと怒りが、終わらない地響きと共に聞こえてくる。
だが、日本人には聞こえない。まだ工事が終わらないのかと呆れ果てて、文句を言うばかり。実に身勝手極まりない。いずれ自分たちの家も解体されるというのに悠長なことだ。
生家という居場所を失う恐怖を未だに知らない者は多いだろう。私の生家は他人の家になった。人はいる、けれども祖先はもういない。
生家を解体された人は、どこまで失うのだろうか。祖先が消えるだけならまだマシだ、と思ってしまうディストピアが、徐々に広がっていく。
今日も解体された家を見た。ガラガラと音を立てて崩れていく。不意に、図書館で出会った親子を思い出した。絶滅した恐竜を可哀想と悲しむ子どもに、親はいつかは人間も滅ぶよと教えた。
随分と恐ろしい返事だったが、数億年前に消えた生き物を嘆いてくれる生命体がいた喜びだったのかもしれない。
私も解体された家に可哀想と涙を流さなくてはならない。いずれ、私の生家も実家も街の開発という名目で解体される。そうして何世紀も超えて、涙がすっかりと蒸発して空気になったころ、この土地に住んでいた人間がいたんだなと誰かが想いを馳せてくれるだろう。
たとい玉が砕けても、瓦は砕けないというが、そのぐらいしぶとく生き残れば人として上等だ。瓦との再会であれ、珠のような感涙が流れたら、実に美しい風景になるだろうな。
(250412 風景)
「僕が「君」って呼ぶと、周りから恋とか愛とかBLとか言ってくるのは、何故なんだろうね」
「さあ? そういう人は、君っていう存在がいなくて愛に飢えているんじゃない。羨ましいとか妬ましいとか美しいとか思って、わたしたちに飢えた愛を押し付けているんだ」
「いっそのこと、自分自身を愛せば良いのに」
「それでも、自分を更に2人に分裂して、恋の妄想をする人はいるよ」
「そもそも、2人が並んでだけで、なんで恋が始まるのかな。別に、友人でも仲間でも家族でも良くない?」
「誰かと2人っきりになれる機会がないんだよ、恋しか見えていない人たちは」
「そういう人たちから性欲を取ったら、いったい何が残るだろうね」
「何も残らないよ。人肌が冷めていくだけ」
「わあ、悲しいなあ。人間は自然にだって恋できるのに、もったいない。人間は人間にしか、恋も愛もできないと思い込んでいる人って寂しいなあ」
「寂しくなった? それなら、わたしに自然に恋した人を教えてよ」
「もちろん! まどのともし火っていう詩歌だよ。一目みてはや恋しきは此世なるえにしのみにはあらじと思ふ」
「良いね。窓の光の奥に通ずる、前世の恋の道を見つけられたよ」
「君と僕もそんな関係だよね」
「聞かなくても分かるでしょ。もっとわたしのために自信を持って」
(250411 君と僕)
「私、貴方から俳句をいただいた夢を見たのです。そういう夢を見たと、自信を持って言っても良いですか」
「実にナンセンスだ。1990年代の薔薇よ、夢は誰でも見るものであり、所有するものだ。お前が自信を持たねば、夢は潰える。夢みるひとに憧れているなら、尚更自信を持て、胸を張れ、汝薔薇ならば花開かん」
「ああやはり、1800年代に咲いた薔薇は本当に美しいですね。夢の中でいただいた句も、胸の中に烟る黒煙を溜め息にして吐くほどにさぞ麗しかったのでしょう」
「その様子だと、覚えていないのか」
「はい。届いた荷物の宛先の代わりに、貴方の句が書いてありましたが、真っ白に輝いていて、よく見えませんでした」
「やれやれ、流行にしか飛べない鶏の翼は夢の中でも邪魔をするのだな。仕方ない、私のナンセンスな句だ。お前のナンセンスで代わりに詠んでみろ」
「まあ困りました。俳句なんて全く思いつきません」
「心配するな、私の友人が言っていた。歌は小便を垂らすように詠んだらいいと」
「なるほど、生理現象に似た気持ちで書けば良いのですね。——ぬばたまの ともし火に咲く そうびかな」
「うん。及第点だ、悪くない。今度は、しっかりとお前のもとに私の詩を届けよう。夢の中で待っててくれ。さあ、おやすみよ」
(250410 夢へ!)
元気かなと聞いてくるお前の黄ばんだ歯に映る鏡の向こうの狼が牙を剥き出し警戒する唸り声に響く水道水の波紋から腐った臭いに混じって溜め息を吐く耳と月経を垂らす鼻と口から出てきた赤子を必死になって押さえ込んで吐き散らして隠して見せびらかす腹の中で暴れるアニマとアニムスを慰める母性に去勢され犯す父性に子宮を奪われ矛と盾を繋ぎ合わせて壊して馬と鹿をくっつけてシャム双生児を産み出して死に入り穴に入り奥へ奥へと足をバタバタと踏み鳴らし歯をガチガチと噛み鳴らし瞳の奥にいる相手の顔を覗き込んで元気だった相手を引き摺り出して曝け出して心臓を掻きむしって殺した大丈夫と聞いて大丈夫としか言わせないお前は元気なのか。
(250409 元気かな)