はた織

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3/30/2025, 1:25:36 PM

 生暖かな晴天のもと、いつもの散歩道でふと視線を横にずらした。低い坂の上に、一階建ての横長い家々が並んでいる。坂の上近くの家が目に入った。ちょうど玄関の扉が見える。
 すると、その扉はゆっくりと外に向かって開いた。開かれた玄関口には誰もいなかった。扉はスローモーションのような動きをしている。それとも、春風とともに開かれた扉を見て、私が夢見心地を覚えたか。ゆったりとした動作から、扉が「お入り」と言っているようだ。
 思わず足が動く。招かれている。知らない家だが、きっと入って良いはずだ。だって招かれている。私は、開かれた扉の向こうを覗きたくて歩もうとした。
 その時、扉から大きな音が鳴った。目の覚めるような騒音だ。蝶つがいの限界か、中途半端に開かれた扉は、痛みに悶えるようにガタンガタンと震えている。「入れ」と騒いでいる。
 不穏な気配に身構えた。そして、私は冷静さを取り繕って、いつもの散歩道に急いで戻った。耳の奥には、扉の内側にあった呼び鈴がやかましく響いている。見ていないのに、開かれた扉の奥から伸びる真っ白な腕が、私の脳裏に焼きついた。
 腕はドアノブを掴もうと、ただ真っ直ぐに伸びている。腕しか見えない。腕しかない。どこまでも白くて細い肉の塊しかなかった。
 その淡く見える塊は、あまりにもゆっくりだ。しかも、あまりにも長すぎる。焦ったい。早く閉めろと私は焦り出した。足がどんどんと速まっていく。早く閉めろと私がうるさい。扉もバタバタとうるさい。自分で閉められない扉が、入ってこいとか言うんじゃない。ガタンガタンと脳髄を叩いてくる。うるさいなと私はドアノブを掴んだ。春のぬるい陽光は、白い腕を淡く浮かび上がらせる。扉が騒ぐ。呼び鈴が鳴る。足音がする。風が吹いた。
 うるさいと扉を閉めて黙らせた。
              (250330 春風とともに)

3/29/2025, 12:52:41 PM

 アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』に、涙を「塩化ナトリウムの水溶液」と比喩した文章がある。その辞典を読んで以来、私は涙を見るたびに、塩化ナトリウムの水溶液だと言っている。声に出したい言葉のひとつだ。
 泣いている相手やもうひとりの自分は、心臓から湧き上がる感情を涙に流したくて仕方ないというのに、これだから言葉を覚えたばかりの子どもは困る。
 まさに悪戯っ子だ。悪魔だ。血も涙もない。
                   (250329 涙)

3/28/2025, 1:44:55 PM

 彼女が指差す方向には、梅の木があった。背の低いフェンス越しにある梅の花は満開である。黄色のフェンスの存在をかき消す大きな花びらは、紅白桃の三色に彩られている。
 彼らが近づいてみたら、甘酸っぱい香りが漂ってきた。いくつかある梅の木は、一箇所にまとめて植えられている。接木の跡がない。何度も春を迎えた結果、三色の梅の木が混じり合って、多彩な花びらを咲かせたようだ。白と桃を咲かす花びらがあれば、桃と赤に花開く梅もある。
「赤と白の花はあるかな?」
「源平が一緒になれる訳ないだろう」
 梅の木は、ちょうど彼女の身体の大きさと同じだ。幅も彼女の両腕を広げた分である。
 そんな小さな木に咲く花びらを隈なく見回したが、赤と白の梅の花を見つけられなかった。フェンスを越えた枝先には、三色の梅の花がそれぞれ咲いている。彼女は手を伸ばして花を触った。「子どもの髪の毛のように柔らかい」とはしゃいでいる。
「何十年も交配されてまだ子どもとは哀れだ」
「花にとっては生まれて初めての春だよ。大事にしてあげないと」
「散ればすぐに忘れるだろう」
「想い出の中では咲き続けるよ。想い出せば何度も花開く」
 彼女は自身の胸を指で軽く叩いた。想いは古今東西、人間の心臓の中にあるようだ。手のひら大しかない器に、彼女は無数の花びらの想い出を詰め込んでいるらしい。
「もちろん、貴方と一緒に見た想い出も残るよ」
 更に追加で、長身の彼も心臓の中に詰め込むようだ。
「お前の中で、源平咲きの花が咲くなら残ってもいい」
「じゃあ、頑張って咲かせてみせるよ」
 どうせ記憶違いするだろうと彼は返事しなかった。彼女の想い出の中で都合良く、赤と白の混合色の花が勝手に咲くだろう。そう見くびっていた。だが誤った記憶であれ、幸せそうに見える。
 人に勘違いされて殴られるような人生を送った彼だが、死にはしなかった。生きたいという気持ちが、彼を生かした。紅白の花も咲かせたいと気持ちを込めれば、いつかは本物になるかもしれない。
 女は梅の木の前で微笑んだ。いつも白い頬にかすかな血色が帯びている。
               (250328 小さな幸せ)

3/27/2025, 2:00:42 PM

「さあ、サクヤヒメ。日本酒をどうぞ」
 彼女は屈んで瓶を傾けた。地面に落ちた桜の花びらは、日本酒の滝にのまれていく。街灯に照らされた水たまりには、酒の香りに混じって微かに花の匂いがした。
 男はただ見ていた。酔っ払いの挙動を訝しんでいる。彼女が、カバンの中にあった酒を一日中大事にしていたから、たいそう美酒なのだろうと彼は期待していた。だがその美酒は、今やコンクリートの上に留まる汚水と化してしまった。彼女は、星空も映らない無機質な水たまりを眺めて、ニタニタと笑っている。
「酒の匂いで酔えるとは随分と能天気だな」
「あはは、ボーキサイト味の缶ビールを捧げるよりかはこっちが良いでしょ」
「何が言いたい?」
「みんな春らんまんといって花見を楽しむのに、散った桜にはちっとも見向きもしない。しかも、ゴミを置いて帰るでしょう。散った花びらにだってサクヤヒメはいるのに」
 彼は戸惑った。おそらく、顔の赤い彼女と見ている景色が違うのだろう。彼も屈んで、日本酒に浮かぶ花びらを見た。
 彼女は酒の湖にうっとりと見惚れているが、彼の目にはやはり汚水にしか見えない。溢れた液体は、街灯の光を跳ね返し、コンクリートの溝を強調させ、化け物のような鱗を浮かび上がらせている。彼女には、サクヤヒメがそこで寝転がって見えているらしい。
「人の命が花か岩かと選ぶ話があるけれど、貴方の国では何を選んだ?」
「さあな。知っても俺には関係ない。ただ、水から全てが始まったと聞いたことがある」
「水から全てが始まった?」
「ああ、生物も物語も歴史も全て水から生まれた。そう覚えた」
「じゃあ、ここでひとつ聞かせてよ。水から生まれたお話を」
 男はなんとかして嫌そうな顔を見せた。彼女はまだ酔っ払って笑っている。彼女に睨み返しても無駄であった。
「……地神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地根。綿綿若存、用之不動」
「わあ、博識だね」
「もう酔いが覚めただろ。帰るぞ」
 男が立ち上がるのにつられて、彼女も身体を伸ばして一緒に歩み出した。
 桜は寝る暇もなく散っている。日本酒の湖には、花びらが徐々に集まってきた。ようやく、人々が寝静まって星の光が輝く夜明け頃、酒に溶けた花びらは、じっくりとコンクリートの下に濾過されていき、するりと消えていった。後に残ったのは、濡れた地面に溢れ出る星々の光だった。
                 (250327 春爛漫)

3/26/2025, 1:34:22 PM

 ユリから虹の質問をされたので、ケンは祖父が若い頃に見た虹の感想を言った。
「爺さん、シェルター前の空にあった虹のこと、あんまり覚えていないってさ」
「どうして? クラウドに保存された写真画像の虹は綺麗だった」
「そう言われてもな、相手は物忘れの爺さんだ。周りの友達と一緒に虹を見て楽しかった記憶はあるらしい」
「本当に七色だったのか覚えていない?」
 彼は首を振った。祖父から、七色だったかもしれないが、それよりも虹を見た感動で胸がいっぱいだったと聞いた。
「つまらない」
 ユリは汚物を見下すような目をした。虹色に染めた髪を根本から引っ張っている。力任せにいくつか抜いてしまった。脂に包まれた黒い毛根が現れた。
「おい、やめろよ。禿げちまうぞ」
「はあ?」
「いや、だから、せっかく虹色に染めたんだろ。お前の髪が台無しになる」
 彼女のこめかみに青い血管が浮かんでいる。目の焦点は合わないが、微かに潤んでいる。彼女は、ケンの言葉を聞いて髪の毛を抜く手を止めた。彼女の足元には、抜け落ちた髪が絡み合っている。
「この髪は、この髪はさ、もう台無しなんだよ。黒かった髪をキレイだねって触ってきて、頭を撫でてきて、掴まれて、押されてさー、散々カワイイとかイイ子とかキモチイイとか言ってきたくせに、最後には母さんには黙ってろよって脅して、ホントマジクソ気持ち悪い」
 彼女はずっと髪を触っている。はねる赤い毛先、うねる青い髪の毛、色の抜け切った黄色い髪、切れ毛だらけの緑、枝毛しかないオレンジ、そして折れ曲がった紫の髪の毛。
 ユリは俯いた。彼女の頬を囲む髪は、黒く変色していた。彼は、前髪で顔を隠す彼女をただ見つめるしかなかった。かける言葉が出てこなかった。
「だから、もっと台無しにさせてやった。黒なんてない、髪を虹色に染めちゃえば、あいつだってドン引きするだろうって。でもさ、虹を見ても覚えないんでしょ。ただ笑うだけでしょ、ゲラゲラと。それって何も変わっていないってことじゃないか」
 ユリはだんだんと涙声になって、ついにはすすり泣き出した。どうにか、彼の中から希望を見出したかったのだろう。
 ケンは、彼女に誤った答を出してしまい、自身に失望した。思わず、頭を抱えて掻きむしった。
 あの時、祖父に問うた虹を、隣にいた祖母はにこやかに歌った。虹の向こうには夢が叶う場所があると歌っていた。そっちを言えば良かったと彼も泣きそうになった。
「俺はな、最初にお前の髪を見て衝撃を受けた。シェルターの向こう側にある虹は、その髪の毛みたいにサラサラとして綺麗なんだなって思わず夢見たさ。本当の虹を見たら、ずっと忘れない。そんな夢さえも見た」
 ユリはまだ泣いている。彼はもう泣くなと言いたかったが、怒りか悲しみか、震えるくちびるでは何も言えなかった。
 シェルターに映る夕陽の映像が、徐々に夜空の映像へと移行し始める。数多ある画素数の一つに、白い星がぱっと浮かんだ。
                  (250326 七色)

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