夜明けの明星が輝けば、脳髄が溢れ出す瞬間。
記憶に渦巻く内臓を解きほぐし、細かやな糸に変じて空気の中に混ざっていく。
煙のようにか細い糸は、夢と現実の狭間に揺れ動く。
するりと、夢から引き揚げて今世に戻ろうか。
ずぶりと、前世のたましいまで深く潜ろうか。
私の脳髄の片隅に這う蚕に会いたいなと神世まで降っていくが、スマートフォンのアラーム音が荒れ狂う大海原の波の如く怒鳴ってくる。
電磁波に支配された私の脳は、再び硬く結ばれた肉塊となって目覚めた。
(241204 夢と現実)
相手が突然さよならと言わないで別れるゲームをしようと言い出したので、心底呆れ果てた。もうそろそろ席を立とうとする私を見計らって、向こうが悪戯に笑ったので余計に腹が立った。さてどうやって別れようかと思案している振りをして、そちらさんは私を試している。真剣に振り絞った声でも、にやつく口元が笑みで震えていた。
まだ遊び足りないこの大きな幼子をどうあやそうか。ふと、近くのテーブルに目を向くと、蜜柑が幾つもお盆に転がっていた。
ああ、そういえばやってみたかったことがあると閃いた時には、既に私は蜜柑を一つ手に持って、何度か手のひらに転がし投げたり落としたりと繰り返した。
上手だねと向こうが茶化してきたので、私は何も言わずに蜜柑をそちらへと放り投げた。相手は急に眼前に降ってきた果物に慌てふためき、瞬間に手を出して一度滑らすも、二度三度ところころと蜜柑に弄ばれて、ようやく両手でしっかりと握った。
たちまち心をおどる暖かな日の色に染まっている良い蜜柑でしょと、私はあごに指を添えてみせた。相手は意味が分からなかったようで、呆けた顔で瞬きを繰り返している。
古き時代から今も伝わっているあいさつだよと、私は相手の眼をじっと見つめながら、手を振って立ち去った。
(241204 さよならは言わないで)
黒檀舞い散る宵闇の中、象牙色に淡く光る障子窓の向こうに何かいないかと私は目を凝らしてみるが、格子状の木枠しか浮かび上がってこない。
明かりは灯されても人気を感じられない無機質な家に呆れ果て、私は窓にぐっと近づき、和紙の細かな隙間を覗き込んだ。隙間の向こうに、鶴が編み針で五本指の手袋を編んでいたら、さぞ面白かっただろう。だが、透けた紙の向こうには物語もたましいもなかった。
仕方ないから私が障子にへばりついて、不気味な影となって家中の人間を騙してやろう。障子を張れば和の雰囲気が出るだろうと、ただその場の空気に流されているうつろな家にも幽霊が訪ねてきたぞ。風情がある家主なら柳田國男が詠ったように、一目みて恋しいと思いは前世からえにしだと、ときめいて喜ぶだろうよ。
この光と影の狭間で、障子の向こうにいる人間は私を何と見る?
(241202 光と影の狭間で)
私の手足と胴体と髪の毛と爪と皮膚と内臓と思考と思想と神経とたましいをぜんぶ本の中に詰め込んで、人肌のように柔らかな綿の表紙に、緑の髪に編まれたような竹紙の本文、そして天アンカットで美醜の陰影を演出しましょう。
人の胸に抱きしめられるぐらいの白い箱の形に整えたら、私はきっと人間相手でも勇気を持ってこころから距離を縮められるわ。
(241201 距離)
泣かないでと言ってくるあなたこそ泣きそうだ。
私の涙を奪ってまで泣きたいなんて、よほど悲しみに溺れたいのだろう。
その涙が塩になって乾くまで、その泣き顔をずっと眺めましょう。北海と南海の潮流渦巻く私の血潮を濾過して流した涙の味をその身でとくと味わえ。
(241130 泣かないで)