蝉が鳴き始めると、嫌でもあの日を思い出してしまう。
油照りに額に滲む汗が目に入る。
涙を拭うようにして擦っても、目の違和感は残っていた。
あの日、僕は少年だった。
バケツいっぱい集めた蝉の抜け殻を、君は嬉しそうに見つめた。
僕の手からそれを奪って、ばらばらと地面に落とす。
それから茶色い小山に近付いて、勢い良く踏み潰した。
クシャ、と音がした。君の笑顔が、まるで僕には天使のように見えた気がした。
もしも過去へと行けるなら、僕はあの日の君に会いたい。
子供だった頃と違って、もう蝉の抜け殻なんて興味は無いかもしれない。あの頃の残虐性は、とっくに成長という名の束縛によって消えてしまったかもしれない。
それでも、無邪気な君が好きだったんだ。
そんな稚拙なアネクドート。ああ、今日も蝉の声が聞こえる。
十九作目「もしも過去へと行けるなら」
あの日の君に会いたい。無邪気な美少年の君に。
蟻の巣に水を注ぐような、蝶の羽を毟り取るような、そんな幼さ故の嗜虐性に惹かれた男の話です。大人になることで失うものもある。
出逢えば必ず別れがありましょう。
それは、光あるところに影があるように、或いは咲けばいつか散りゆく花のように、満ち欠けする月のように、ごく自然なことです。
別れるということは、別段悲しいことでは無いのでしょうか。
しかし、再会という言葉もございましょう。
出逢いがあれば別れがある。別れがあれば出逢いがある。
そうして人々は関係を紡ぐのでしょう。
だから、またいつか、会える日を願って。希望を捨てないで。
もう会えない友もおりましょう。記憶の中に閉じ込められてしまった友が。
でも、忘れなければ。忘れなければ生き続ける。
人の真の死は、誰からも忘れられ、生きていた証が消え去ったときにこそ訪れるものです。
だから、あなたには前を向いて欲しいのです。
新しい出逢いに、まっすぐ向き合ってください。
私はいつでも遠くから、あなたの幸せを想っております。
神様の言葉には棘は無いが、背筋が伸びるような張り詰めた空気が漂ったのは何故だろうか。そのまま、大切なものを失くした俺を、どうしようもない駄目人間の俺を、導いてくれませんか?貴方の道へ。
十八作目「またいつか」
一緒に居た時間が短くとも、なんだかんだで続く交友もある。曖昧が立証済み。
過去に囚われているような気がしていた。
もう別れたのに、他人なのに、別々の人生を歩もうと決めたのに、俺はいつまでも恋人を追い続けている。それが幻影であると分かりながら、美しい輪郭を掴みたいと願ってしまう。まったく愚かだ。
「ただいま」と口に出したのは、あいつの声がまた聞きたかったからだろうか。潜在的な癖に支配されているかもしれない。どちらにせよ、誰も居ない空間からは勿論「おかえりなさい」は聞こえてこなかった。
「そら」
思わず呟いた。そのとき、俺は気がついてしまった。あぁ、俺は、あいつの名前すらまともに呼んでやらなかったんだな。いっそのこと首かっ切って死ねたら良いのにな。
十七作目「今を生きる」
二日すっ飛ばしましたが、変わらず生きております。曖昧です。
いつまでも過去と決別できない。二人だけの、恋がしたいから。
スケッチをしようと思ったから、家の近くの公園に立ち寄った。そこを選んだのは、なんとなく木漏れ日が幻想的だったからだ。他にはない魅力を感じたんだ。
少し進み、このあたりだろうか、という場所に見当をつけて画材を広げる。そして描き始めようとしたとき、「あ」と思わず声を出した。
揺れる木陰に、美しい少女の姿があったからだ。
僕は彼女を描くことに決めた。人を描くのは慣れていなかったけれど、なんだか彼女もこの公園の一部のように思えた。そのぐらい調和していて、今、なくてはならない妖精みたいな存在だった。
夢我夢中で筆を走らせた。時間を忘れ、没頭した。ただこの美しい風景のすべてを描きたい欲求に駆られていた。何色も絵の具を塗り重ね、試行錯誤しながら光を映し取る。その手作業に魅入られたのは、何年も前の話だ。
あらかた満足した頃、少女は居なくなっていた。出来上がった絵を見せたかったのに、と少し残念な気持ちを、絵の中の彼女に託す。そのとき、口元に微笑を浮かべる少女の左脚が、不自然に描かれていないことに気が付いた。これは、僕のミスだろうか。それとも……
十六作目「揺れる木陰」
曖昧も絵を描くという行為に魅せられているとおもう。いつか生身の人間を描きたい気もあるから、これを書いたのかもしれない。
陽炎揺らめく日、摩訶不思議なものを見た。
フリルとリボンで飾り立てられたロリータの球体関節人形が、涼し気な青い目をこちらに向けながら、くるくると踊っている。
それを街を征く人々が、足を止めて、思わず魅入っていた。
とある少年が彼女のドレスの裾を踏んだ。
人形は転び、バラバラに砕け壊れてしまった。
その破片を皆で集めて、口に運び、咀嚼する。
怖くなって、私は逃げ出した。手の中には破片があった。いったいいつ拾ったのだろう。
そんな真昼の夢。
十五作目「真昼の夢」
『胎児の夢』、そして、曖昧の敬愛する江戸川乱歩氏の『白昼夢』を思い出した。人形がすきな気持ちは、幼い子供のようで尊い。