寒い。夏の夜だが、思いの外体が震える。薄手のパーカーだけで出てきてしまったことを後悔した。
辺りは暗く、波の音が聞こえる。それと風の音。蝉の声。喘ぐような自分の声。全部が鼓膜をつんざいて止まない。高鳴る心臓は内側から苦痛を与えてくる。すべてを終わらせてしまいたくて、私はここに来た。
昨日友人が死んだ。突然の訃報だった。特別仲が良かった訳じゃなかった。でも、すごく優しい子だった。
朝の放送で校長先生が淡々と、でも悲しそうに紡ぐ言葉が、私にはあまりにも辛すぎて。息をするのも忘れるほどに、脳が理解を拒むほどに、ただ苦しかった。彼女が死んだ?そんなの、嘘だと思いたかった。ふらふらとした足取りでトイレに向かって、気付いたら泣いていた。
持病があったらしかった。最後のおわかれに、彼女が生活していた家に行こうと思ったけれど、やめた。ただ、お互いが暇なとき少し話をするだけの仲。あの子のことを、私は何も知らなかった。彼女の家にあがる資格も、御両親と顔を合わせる資格も私には無い。
目を閉じると、あの子の笑った可愛い顔を自然と思い浮かべてしまう。別に、親友とかそういう関係になるまでじゃなかったはずなのに。それなのに、彼女がこの世を去ってしまった今、私は胸に穴が空いたみたいだ。どうして、今更後悔なんてしているんだろう。
揺れる波に足を突っ込んで、そのまま歩き続ける。どんどん深くなる海は、私を包み込むようだった。寒い。冷たい。凍えて今にも死にそうだ。目を閉じてそのまま眠りについてしまえれば、もう何も考えなくて済む。
報せを受けたあと、彼女が絵を好きだと言っていたことを思い出した。彼女の絵はきっと、美しくて、素敵なんだろう。それを直接自分の目で確かめられなかったことだけが、私の心残り。
四作目「波音に耳を澄ませて」
学生時代など、もう何年も前のことだ。
当時の記憶はほとんど消え、思い出の品もこの前断捨離した。そのことをはっきりと自覚したのは今さっき。そういえば、と思って中学の部活Tシャツを求めてタンスを漁ったときだ。先週の土曜日にゴミ袋にぶちこんだときには、何も感じなかった癖に。どんなデザインだったのかすらおぼろげで思い出せない。あの頃、自分が何をしていたかもよく分からない。辛うじて健在な記憶と言えば、バスケットボール部だったことぐらいだろう。
がむしゃらにコートを駆け回った日々。厳しさに耐えかねて辞めた仲間も居た。大会で成果を上げる。そのためだけに、俺は…俺達はいつだって頑張っていた。ライバルに打ち勝つ瞬間が、進んでいく感触が好きだった。ところが引退後は受験勉強に追われ、気付けばバスケへの情熱は消えていた。強豪校に入学して、またやるつもりだったのに。結局帰宅部で、毎日家に帰ったら一人でゲームをしていた。たまにバスケを続けた友人が俺を訪ねてきて、その度に「バスケはやらないのか」と言った。「もういいよ」と笑ってみても、俺の心の靄は晴れない。
俺は、あそこで一体何を学んだんだろうか。かけがえのない学生時代をドブに捨てた気になった。もう少しだけ、あのやわらかい青い春風に吹かれていたかった。
友人を誘って、近くの公園に来た。急に呼び出したのに、まるで待ってましたというかのような笑顔でやってきたので、驚いてしまった。バスケットゴールのある場所。よくここで自主練をした。押し入れの奥からボールを引っ張り出してきたから、当然空気は抜けていて、それでもなんだか懐かしさで胸がいっぱいだった。
「久しぶりだな、バスケ」友人が口を開く。そんなことないだろ、と言うと、「お前がだよ」と軽く小突かれた。まるで学生時代に戻ったみたいだった。
それから何度か挑戦したが、前みたいに上手くはいかなかった。とにかくゴールに入らない。身体が重くて思うように動かなかった。ああでも。やっばり、俺はやめたくなかったんだな。
そして、何十回目かだった。
「入った!」思わず声が出た。
「見てた?」「うん、見てた。すごかった」
頬を撫でる青い風が気持ち良かった。青い、初夏の風だ。
三作目「青い風」
「遠くへ?」
僕は思わず聞き返した。君が突拍子も無いことを言ったから。
「うん。どこでもいいから、遠く、遠くへ」
君は真剣な目をして僕を見つめる。つられて僕も真剣になって、見つめ返した。
遠く。具体的な場所は無く、遠くに?どのぐらい?市外?北海道や沖縄?それともアメリカ?はたまた宇宙?僕は脳内で、思いつく限りの遠い場所を、ぐるぐると巡っていた。
「まあ、どこでもいい訳じゃないけど」と君は付け足し、空を見上げた。オレンジだ。絵に描いたような夕焼け。ちょっと紫がかった天を暫く見ていると、首が痛くなってきてしまう。
「行こう、遠く」
僕は言った。僕達なら、どこにでも行ける気がした。なんとなくだけど、君もそう思ってくれているだろう。
「あ、雨」
ぽつり、と僕達の顔を濡らす雨。どうしよう、傘を持っていない。君の方を見ると、困ったように笑っていた。
お互いの顔を見合わせて、笑い声を上げて、僕達は走り出した。雨はだんだん強くなっていく。遠くへ行け。そう言うように。
二作目「遠くへ行きたい」
僕はずっと待ち望んでいた。今、この瞬間を。苦しみから貴方を解放できるときを。
プリズムの、七色の眩い閃光。輝きに貫かれ、彼はきらきらと消滅した。それは残酷な殺人にも、安らかな最期のようにも思えた。
元は透明だったクリスタルは、真っ黒く染まっている。輝きを失って、役目を終えたように佇んでいる。ようやく、終わったのか。長い溜息を吐き、床に大の字になった。
それは“世界一美しい兵器”と呼ばれる。全長約3メートルの、岩のような宝石の塊。或る島国の孤独な研究者が発明したらしい。透き通り、なめらかな表面が倫理の無さを誤魔化していて、僕は直前までそれを使うことを避けていた。理由は特に無いけれど、なんとなくとても非人道的な行いだと思った。
仲間と任務を裏切った彼に、制裁を与えることになった。僕は何度か上の者を説得したが、彼の犯した罪はあまりにも重かった。
せめてもの情けだった。拷問師の僕が彼に出来ることと言えば、きっとこれぐらいだ。美しい兵器によって、美しい死を遂げること。本来ならば許されないこと。けれども僕は後悔も反省もしていない。大切な彼が苦しまずに済むのなら、僕はどうなろうと構わないから。
体を起こして、醜い兵器に触れる。赤黒いべったりしたものが手についた。そのとき僕は初めて、彼を殺したことをはっきりと自覚した。
一作目「クリスタル」