水が下へ向けて滴る、その瞬間。
瞬きの間にも満たないような、ほんの僅かなその一瞬。
小さな宝石のような水の玉が、地面に落ちて、跳ね返って元の形に戻ろうとするあの徒労。
水が落ちて、ぺたんこの丸い水溜まりになる前の刹那、一瞬だけ生まれる水の冠と、その中央を舞う小さな水の玉。
私は、それらが狂おしいほどに好きだった。
滝のような荒々しい水だって当然好きだ。
或いは、大海のように雄大で、凪いだ水だって好きだ。
だが、どれもあの雫の一滴の美しさには敵わない。
あの雫たちは、どう頑張ったってこの地球上であの形をそのまま保ち続けることはできない。
どれだけ高いところから落として延命したって、時間さえ経てば地へ落ちて、広がって流れてしまう。
死ぬために、消えるために生まれてきたようなあの小さな雫たちが、愛おしくて堪らないのだ。
空の色を映してコロコロ変わる水色も、重力に負けて形を変えてしまうその弱さも、全部。
この異常な愛を受け入れてくれる人間は、これまでの私の人生の中では、ただの一人もいなかった。
家柄も、顔も、収入も、世間が求める以上は持っている。
私に言い寄ってくる女性は、もう数え切れないほどだった。
けれど、私はそのどれもを断り、ただ一途にあの水の宝石たちを愛している。
水滴に魅入られてみすみす適齢期を逃した私を、親は大層残念がった。
だが、仕方がないのだ。
雫のあの儚さは、一瞬だけの輝きは、どれだけ努力を重ねたところで人間では到底叶えられない。
水の群れから逸れ、下へ引かれる力に負けて落ちるあの瞬間にしか生まれられないあの子たちがあまりに可哀想で、それはあまりに美しい。
あの水玉の命が潰える瞬間の、地面で爆ぜた瞬間の王冠は、この美しい仕組みを生み出した地球へ贈る、小さな小さな称賛の冠なのだろう。
私は雫を愛しすぎた。
私自身が、雫となることを望んでしまった。
群れから逸れて、高所からその身を落とし、爆ぜる。
人間にだって、できることなのだ。
翌日の朝、窓辺の草から落ちる朝露はいつもよりずっと愛おしく見えた。
今から、私は彼らと同じになるのだ。
テーマ:雫
あの子のために、僕は僕のできることを全部やった。
あの子が課題をしたくないと嘆いたから、勉強は嫌いだったけど、全部完璧になるまで勉強した。彼の課題を、代わりにやってあげられるように。
あの子が働きたくないと言ったから、多少無茶をしてでも給料のいい会社に就職した。彼を養ってあげられるように。
あの子はとてもかっこよくて、綺麗で、気だるさを孕んだあの目が誰彼構わず誑し込んでしまう。
誰かに彼を取られるのが怖くて、彼にも僕に依存してほしくて、僕は更に頑張った。
彼がお金が欲しいと言えば、欲しいだけ全部あげた。
生活が苦しくなってきたけど、僕は運が良かったみたいだ。
僕の顔は、そういう趣味の人達に受けが良かった。
適当にアプリで出会って、愛想笑いで相槌を打って、手を繋いで、一晩耐えるだけ。
それで、彼の笑顔が見られる。安いものだ。
おじさん達が僕に触る手も、僕を見る目も、全部気持ち悪かった。だけど、その後に彼の笑顔が見られればリセットされる。
僕にとって彼は唯一無二だった。
だから取られたくなくて、必死になっていた。
他の、彼のことを好きな誰より好きだと、お金も、自由も、他の誰より与えられると示したかった。彼の中で、価値を得たかった。
だけど、彼には僕以外があった。
彼の運命は、僕じゃ、なかった。
どこで出会ったのかも、何度逢瀬を重ねたのかも、僕は全部知らない。
僕が休日を返上して、知らない人に体を許してまで得たお金は、全部あいつとの逢瀬に使われていた。
これまで何ともなかった疲労と、吐き気と、倦怠感が一気に体を襲って、僕は姿勢を保つことさえできなかった。
彼さえいれば、家に帰って、彼の温もりさえあれば僕は十分だったのに。お金も物も、他なんて一切要らなかったのに。
机の上に置かれた合鍵と、雑に切り取られた走り書きのメモを前に、僕はもう何をする気力も沸かなかった。
彼が欲しかったのは、お金でも、自由に動ける時間でもなかった。
彼は、2人で水族館に、或いは映画館に出かけて、のんびりカフェでお茶を飲んで、夜には静かに抱きしめ合うような、そんな人が欲しかった。
僕は、それになれなかった。言ってくれれば、仕事なんて全部放り投げたし、その日の夜の予約だって全部断ったのに。
彼にとって必要だったのは、彼以外何も要らなかった僕じゃなかった。
彼がいないなら、もう全部いらない。お金も、仕事も、家も、命も、全部。
テーマ:何もいらない
無味乾燥な人生だった。
騒がしく、喧しく動く喧騒に包まれた交差点のど真ん中。
自分の中を埋めていた大切な何かが溢れていくのをひしひしと感じながら、向けられるカメラの視線と冷えた地面の感触を、これでもかというほど味わっていた。
適当に生きてきた人生の末を、俺はたった今知った。
幼少期を変に要領良く過ごし、典型的ないい子のテンプレートをなぞって終わらせた。
学童期だって、先生の顔色を伺って、いかに努力せず、そこそこの、目立たない結果を残していくかを学んで終わった。
アニメや小説にあるような青春なんてどこにもなくて、あるのは世間好みの味に味付けされた、量産型のありがちな人生だけだ。
周りに流されて就活をして、甘い誘い文句を疑いもせず入社した。
案の定そこは真っ黒で、見えない残業は当たり前、理由のない上司の叱責に、常にピリついた職場の空気。
誰もが死んだような目をして電車に乗り込んで、重たい溜息と一緒に運ばれていく。
幼い頃の無垢な夢を叶えられるような才能ある人間はほんの一握りで、後の有象無象は大抵、その夢を捨てて社会の型に収まっていく。
こんなザマを、まだ幼かった自分が見たら何と言うだろうか。
保育園の頃の俺なら、何故そんなにつまらなさそうなのか、なんて聞いてくるだろう。
小学生の頃なら、何故そんな会社を選んだのか、と。
中学生なら、もっと察しがいいから、きっと何も言わない。
そんな人生を送ってきたのだ。
もしも、もしも未来が見られたのなら、俺はもっと価値のある人間になれただろうか。
交差点の真ん中、腹に突き刺さった刃もそのままに、俺は瞼をゆっくり下ろした。
人生の中で一番注目されて、一番カメラを向けられた、皮肉な形の夢の叶え方だった。
テーマ:もしも未来を見れるなら
刑務所の中、通気口の小さな穴から見える微かな空だけをぼんやり見つめていた。
空、といっても光が僅かに差しているだけで、その青さも、広さも、眩しさも匂いも分からない。
もう春は過ぎたのか。はたまた、まだ小さな春は続いているのか。
それさえも、僕は見失っている。
たくさんの人を殺した僕は、当たり前だが警察に捕まって、当たり前に牢獄に送られた。
裏社会に片足を突っ込んだような、僕と同じ社会の屑にも死んで悲しむ人はいたみたいだ。
僕が死んで悲しんでくれる人は、もういないのに。
奴らを殴って壊したことを、僕は少しも悪いと思っていない。
僕に倫理を教えてくれた彼を壊した奴らだ。壊し返して、どうして罪になるか理解ができなかった。
僕のやったことは随分重い罪になったみたいで、普通は何人かで生活させられる牢でさえ一人だった。
狭いのも、暗いのも、空気が少し黴っぽいのだって慣れている。
彼がいなければ僕は、きっと名前も知らない女の子の家に転がり込んで、埃と黴と、甘ったるい香水と性の匂いの中で腐ったように生きていた。
彼を失った世界は、僕にとっては随分無味乾燥で面白くもない。それなのに、世界自身は何も変わりやしない。
ついこの間まで満開だった桜は、もう全部散ってしまったと看守が暇そうにぼやいていた。
清廉で、淡くて、愛らしい桜の花弁だって、地に落ちて、踏まれて腐れば僕と同じになる。
監獄はとにかく色が少なかった。
彼が教えてくれた昼間の空の色も、鮮やかな花の色もありはしない。
打ちっぱなしのコンクリートが見せる冷たい灰色に、鉄格子の無機質な鈍色。たまに姿を見せる看守の制服の、僕に馴染んだ空と同じ色をした紺色。
このくらいしか色が無い。
求めれば一部の本なんかは貰えるらしいが、僕みたいな塵に本なんて高尚なものは不要だ。
ただ、彼のいないこの世界で、牢獄と同じようにゆっくり色を失って、桜の花弁の同じように腐ってしまえばいい。
透明な何かが喉に詰まって、僕は息もできなかった。
テーマ:無色の世界
一週間ほど前、僕は友達と桜を見に来た。
友達と言っても半ば腐れ縁のような奴で、なんだかんだ言いつつ一緒に馬鹿をしたり、大騒ぎできる貴重な奴。
お互いに言いはしなかったが、きっと、お互い特別だった。
僕は基本的に社会の規則から外れたダメ人間で、適当な女の子を誑かしてはその子のお金で生活するような人間の塵を自認している。
夜の街を生きる僕は、彼がいなきゃ昼間から外を歩くのなんて、きっと滅多にしないだろう。
馬鹿で、口うるさくて、何かと小言を言ってくる喧しい奴。
だけど、やっぱり大切にしていた。
それなのに。
彼は3日と少し前、僕の所に全く足を運ばなくなった。
突然音沙汰が無くなるのは初めてじゃなかったから、僕もそこまで気にはしなかった。
でも、3日も間が空くのは初めてで、連絡の一つもないのはさすがにこれまでに無かったことだ。
人でなしの僕にだって、心配なんて感情はある。
珍しく彼とのトークルームに自分からメッセージを送ってみたり、普段は嫌いな電話だってかけてみた。
けれど、既読は付かないし、電話先から聞こえるのは無機質なアナウンスのお姉さんの声だけだ。
何か、ざわざわとした不穏なものが脳裏をよぎった気がしたけど、学校の勉強をろくにしてこなかった馬鹿な僕の頭じゃそれを言語化して誰かに伝えるような真似はできなかった。
彼は僕とは違う。
暖かな日だまりの下に生きていて、自分の身体を日銭のために切り売りすることもない。
僕なんかより、ずっとずっと世界に大切にされるべき存在。
今日、彼が見つかった。
あの日見た桜の木の下で、原型も分からないくらいの肉の塊になって。
全部、僕のせいだった。
僕は夜の街でさえ、随分な嫌われ者だったみたいだ。
奴らは僕と同じで臆病だから、僕に直接の手出しはしてこなかった。
もっと無害そうで、人を傷付け慣れていない彼を狙った。
得体の知れない激情が胃の奥からこみ上げて、それで奴らを見つけて、殴って、壊した。そんなことをしたって、彼はもう帰ってこない。
雨の降りしきる中散った血飛沫は、薄まって桜の色によく似ていた。
頬を伝う温かい雨の雫が、彼と一緒に桜の花まで、散らしてしまっていた。
来年の桜を僕が目にすることは、きっともう無い。
再来年も、その次も、ずっと。
テーマ:桜散る