「……やっちゃったの。」
目の前が霞んで、上手く前が見られない。白昼夢のようにぼやけた世界は、どこか浮世離れしていて、現実味に欠けていた。
手にべっとりと残った血潮も、足元に転がる何かの肉片も、何が起きたか分からない。記憶にノイズが走って、今日丸一日の記憶がすっぽりと抜け落ちてしまったようだ。
「……隠さなきゃ、だよね……」
ぽつりと目の前の彼が零した言葉だけが、白けた世界の中ではっきりと響いた。
彼は、最近免許を取ったのだと自慢していた。大きめの新車は、きっと僕らで出掛けるためにわざわざ選んだものなのだろう。
その広いトランクに、ブルーシートでぐるぐる巻きにして包んだ肉塊を積み込む。実家が近いのは幸いだった。田舎にある僕の実家は、広々とした畑を有していた。その倉庫から、ブルーシートを拝借して来ることができたのだ。
「……行こ。……なるべく、遠いところ……」
誰も彼もが寝静まった深夜に僕らの街を出て、2人とも無言でひたすら車を走らせた。真新しい車内には、心なしか鉄錆のような匂いが漂っている。せっかく新しいんだから、この匂いが染み付かなければいいね、なんて、頭に少しだけ残った冷静な部分が囁いていた。
4、5時間車で走り続けて、辿り着いたのは海のある街だった。まだ朝焼けには程遠く、大きく虚のような口を開いた海が静かに唸っている。
ブルーシートを縛っていた紐を解いて、詰め込めるだけ砂と石を詰めて、近くの駐車場にあった鎖まで盗んできて、それでぐるぐる巻きにした。
随分重たくなったそれを、2人がかりで海に運ぶ。いくら春になったって、まだ3月頭の海は冷たかった。
冷えた手足がじんと痺れるのも無視して、2人でブルーシートをできる限り沖に持っていった。海が急に深くなる沖まで辿り着いたら、最後にそれを力いっぱい放り捨てて、それで僕らの業は終わった。
黒々としていた海が、一瞬だけ赤茶けた色になって、それからすぐに黒がまた赤を飲み込んだ。
濡れた服を絞って、寒いくらい薄着になって、僕らはまた車で元の街に戻る。
帰りの車の中は静かで、微かな鉄臭い匂いも、潮の匂いに綺麗さっぱり塗り替わっていた。
静かに静かに手を重ねて、海水で冷え切った指先を温め合うように、指を絡めて、夜間ラジオの静かなクラシックを聞いていた。
テーマ:遠くの街へ
「おはよ!」
目が覚めて早々、喧しい声が響いた。隣に眠っていた弟が、どうやら先に起きていたらしい。
「……うるせぇな…………はよ。」
体を起こして伸びをすれば、背骨がボキボキと軽快な音を鳴らした。
今日は何も予定は無かったはずだ。まだ冷蔵庫に食料も残っていたし、買い出しにも行かなくていい。合法的な引きこもりが可能な素晴らしい1日である。
「あー……映画でも見るか。」
立つのも面倒で、ベッドの上から上半身を乗り出してリモコンを手に取る。テレビをつけると、神妙な顔をしたニュースキャスターが、気の滅入るような事件の話ばかりを連ねている。
さっさとサブスクの配信アプリに入って、受動的に、おすすめ欄の映画を再生し始めた。陳腐なホラー映画は、安っぽい血糊と作りものの悲鳴がうるさくてかなわない。
「ねー、兄ちゃーん……これ変えよ?違うのがいい。」
弟までそう言い出す始末。結局冒頭5分で視聴を諦めて、弟の好きなアニメの映画を見ることにした。
上がる血飛沫も、悲鳴も、三次元のものでないだけで急にあの安っぽさが薄れる。耳を裂くような甲高い声も、可愛い女キャラの顔に合わせれば心地よいものだった。
「……兄ちゃん。」
ふと弟が呼んでくるので、ベッドに寝転んだまま顔だけを向ける。弟は何かをずっと口籠っていて、一向に口を開く気配が無かった。
「……なんだよ。言いたいことあんなら早く言え。」
弟はまた気まずそうにこちらを見上げて、視線を下に俯かせる。映画はそれなりのクライマックスシーンに突入し、壮大なBGMと共に平面的な死闘が繰り広げられている。金属同士の触れ合う音が、やけに大きく、リアルに響いた。
「……外、どうなってるの。」
俺は思わず顔を顰めた。せっかく忘れられていたのに。
外からは、アニメに負けないくらい、赤と黒ずんだ茶色に汚れてぐちゃぐちゃだった。3歩歩けば死体に当たって、はみ出した内臓を踏み潰す感触が靴裏越しの爪先に触れる。あの妙な光が空から差した日から、この街は変わってしまった。おかしな化け物が街を闊歩し、人を見つけては遊び殺して去っていく。誰も彼も、外に出なくなった。店も何もがひっそりと忍ぶようになって、買い出しの時は皆まとめ買い。貨幣より、物資の方が価値の上回った街だ。買い物というより物々交換に近い。
せっかくいい休日になりそうだったのに、と内心若干萎えながら、分厚い遮光カーテンを締め切った窓を少しだけ覗いた。
「……いつも通り。四脚型が1体と水母型が2体だって。」
弟は平然を装って無関心そうに生返事を返したけれど、その体が僅かに強張っていた。
静かに狂ったこの街からの脱出は、まだまだ叶いそうにない。
テーマ:現実逃避
さて、死んでしまったわけだが。
突然こんなことを言われても困るだろう。だが、事実は事実なのだ。俺は死んだ、らしい。自覚は薄いが、自分の葬式に立ち会ったのだから間違いはないだろう。
どうしたものか、と考えて、早一週間である。現実を生きる肉体はもう無いし、かといってこの霊魂だけの身でしたいことも思いつかない。ものにも触れられないし、誰からも見られないのだ。邪な考えを持てば多少の暇つぶしにはなるかもしれないが、生憎、俺にそんな趣味は無かった。
そこで、はたと一つ思いついた。俺の葬式に参列して、下手したら俺の親よりも泣いていたアイツ。奴に憑いてみれば、多少は面白いものが見られるのでは。俺は邪な考えこそ持つ趣味は無かったが、その分性格がひねくれていた。
そうと決まれば俺の行動は早かった。歩き慣れた道を漂って、俺の家の斜向かい、アイツの家の壁をするりとすり抜けて侵入する。何十回、下手すれば何百回も見た家の中のはずなのに、玄関を通さないだけで、アイツに迎えられないだけで、何だか悪いことをしている気分になった。
ふよふよと家中を彷徨ってアイツを探す。奴の家で飼っている犬と猫に、頗る威嚇された後、見覚えがあるとでも言わんばかりに首を傾げられた。動物は視えるというのは本当だったのだろうか。
しばらくして、アイツの部屋にそっと入り込んだ。部屋の中は真っ暗で、俺が死んでからの一週間程は窓も開けていないのか、空気は淀んで、湿っぽく、埃っぽい空気になっていた。
几帳面な彼らしくない荒れた部屋に、こんもりと膨らんだ布団。鼻を啜る音が微かに聞こえるので、きっとこの仲にいるのだろう。
俺は何だか居た堪れなくなって、そっと、優しく、彼の蹲っているだろう布団を撫ぜた。そもそも物に触れられないのだから、真似事に過ぎないのだ。それでも、この泣いている幼馴染を放ってはおけなかった。
ぐす、ぐず、と僅かに震える息遣いが指先から伝わってくる。触れられないのに触覚はあるんだな、と場違いながら感心した。
「……どうして死んだ……僕を置いていくなっ……」
震えて上擦った恨み言が、幽かに俺の鼓膜を揺らす。死んだはずの心臓が、どくりと音を立てた気がした。
『……悪かったって。』
どうせもう聞こえない声。それでも、慰めたかった。
「……お前は今頃、アッチでまた能天気にやっているのか?」
彼の声が、どこか遠く、悲痛な響きでもって聞こえる。彼には見えないのだ。俺が、彼のことが心残り故に彼の世にも行けずに、死んだはずの生き地獄を味わっていることなど。
彼にとって、俺は今、もうこの世界のどこにもいない存在だ。それが酷く寂しいような、筆舌に尽くし難い衝動を俺の肺に押し上げていた。
幽霊が流す涙は冷たいことを、俺はこの晩知った。
テーマ:君は今
この国は年中曇っている。晴れ間が出るのは稀の稀、雨が振らないだけで上等なくらい、この国で青空を拝むのは難しい。
昔見た古い絵本の中に、こんな話があった。大昔に人間たちは酷い争いを巻き起こして、多くの者が死んだという。それに悲しんだ神が三日三晩泣き続けたせいで、この国は分厚い雲に覆われて、からりと晴れた青空は見られないといった御伽噺。
そんな話を思い出すような、いつも通りに陰鬱とした、湿っぽい天気だった。石畳の街道は水を吸いきってその身を濡らし、街の植物の葉には蛞蝓やら蝸牛が這っている。この国では必需品となった傘を片手に、買い溜めの食料を買いに珍しく街へ下りていた。
街はどこも湿っぽくて、雨のせいで露店なんか出せるはずも無いためしんと静まり返っている。子供の遊ぶ声さえひびかず、聞こえるのは雨音と僅かな足音ばかりである。長靴の中は蒸れて不快感を増していく。早く乾いた空気が欲しくて、俺は少し道を急いだ。
馴染みの店に辿り着いてすぐ、聞き馴染みの深い声がする。振り向けば、案の定、この雨の街に降り立った唯一の太陽のような笑顔がそこにあった。
「よ。相変わらず陰気臭い顔してんなぁ。また買い溜めか?定期的に買いに来りゃいいのに。」
軽口を叩きながら、俺がいつも買う品物を、もはや注文さえ取らずテキパキと鞄に詰めていく。缶詰め、瓶詰め、保存用の不味いレーション。みっちりと鞄に詰まったものは、間違いなく今日の目当ての品だった。
「……うるせぇ。毎日こんなうるさくて眩しいとこ来れっかよ。」
悪態をついて、さっさと背を向ける。雨の街に相応しい薄暗い屋敷に住む俺にとって、この狭くも明るく、温かい店は、眩しすぎて怖いのだ。初めから暗ければ、ずっとそのまま。いつか来る終わりに怯えなくて住む。しかし、明るいのはどうだ。この明るさに慣れてしまえば、いつか終わりが来たときに、その光が無くなった時に、どう生きたらいいか分からなくなってしまいそうではないか。
俺はそれが怖くて、今日も、昔馴染みの声を無視してさっさと店を出ようとした。
「あ、ちょっと待て。」
ぐい、と深く被ったフードを引っ張られ、その拍子にそれがするりと外れる。
「おまけ。お前の家、暗すぎんだよ。もうちょっと明るくしねぇとお前転びそうでヒヤヒヤする。」
ぐい、とランプを押し付けられて、ついでに燃料の油も添えられる。そのまま押し出されるように店を出れば、外は珍しく晴れていた。
「……余計な世話焼くんじゃねぇよ……」
ぼそりと呟いた声は、もう彼には届いていなかった。
いつも俺を落ち着かせてくれる物憂げな空は、今日に限って憎らしいほどよく晴れている。手に持ったランプの火が消えないのがどうにもくすぐったくて、物憂げだった空から雲が消えたように、俺の心も少しだけ、あの明かりに毒されてしまったようだ。
テーマ:物憂げな空
ある日。俺の家に、自称天使だという小さな生き物が現れた。
サイズは大体手のひらくらい、見た目はほとんど人間と一緒。絹のような白髪と、桜桃のような真っ赤な瞳。真っ白な羽根、ほんのり光る頭の輪。天使らしい要素はあるが、羽根は小さすぎて飛べないし、輪はうっすら光るだけで何もない。ドジだし、バカだし、なんというか、期待していた天使とはかけ離れている。
さて、そんな自称天使と過ごし始めてから、早一ヶ月が経過しようとしていた。奴は小さいくせに無駄にエネルギッシュで、飛ぶ練習だとか言って机から飛び降りては、結局飛べずに床で泣きわめいている。正直、喧しくてかなわない。
しかしここ最近、奴の姿が見当たらない。元々小さいし、よくどこかに出かけては、犬に吠えられただとか、鳥につつかれただとかで泣きながら帰ってくる。今回も、どうせそうなのだろうと思っていたのに。奴の大好物になった苺を用意しても、名前を呼んでみても、一向に戻ってこない。
別に、構わないと思った。勝手に上がり込んで来て、我が物顔で飯を食うし、部屋は汚すし、煩いし。けれど、いざいなくなってみると、何故かこの部屋が広くて堪らないのだ。元々一人で住んでいたはずなのに、無性に寂しくて、この部屋が酷く味気ないものに感じてしまう。そこらに散っている白い羽根の残滓が、余計に寂寥を増幅させていた。
なんて、人が感傷に浸っていたある日。アイツが訪れた日と同じように、奴は突然帰ってきた。何故か、俺を超すほどの長身で、手には謎の手土産らしき何かを持って。
「やっと戻って来れた!」
第一声にそう言って、やたら整った顔面がすぐ眼前まで迫る。ミニサイズだった時はそこまで気にしなかったが、大きくなると、その美丈夫さに圧倒される。
奴の話はこうだった。小さい姿だったのはエネルギー切れを起こしていたからで、一時的にエネルギー補給をするため俺の家に上がり込んだ。が、想像以上に俺との生活が気に入ったので、元の姿に戻るがてら、地上への移住を伝えるため天上に戻った、と。
正直訳が分からなかったが、あの喧しい同居人が帰ってきたのが、嬉しくて。でも、それを表に出すのも癪で、上がりそうになる口角を必死に抑えつけていた。
なんだかんだ、俺もコイツのことを好いていたらしい。その日の晩、俺の家の食卓に苺が乗ったのは言うまでもない。
投稿忘れにより2日分複合テーマでの執筆。
テーマ:Love you/小さな命