ついこの間。姉の成人式があった。きらびやかな振袖に身を包み、旧友と再会したことを心底嬉しそうに、綺麗に化粧が施された赤い目元で笑んでいた。
それを、僕はどこか冷めたような、複雑な目で見つめていた。成人がそんなに嬉しいかと。
僕は大人になんてなりたくなかった。通学電車で見かける大人は、誰も彼も疲れ切った顔をして、微かな溜息を零しながら死んだ魚の群れのようにドアから出ていく。その澱んだ瞳を見ていると、どうしようもなく未来が不安になってくる。
僕らの世代は、心が弱いだの、協調性が無いだの言われる。しかし、本当は違うのだ。
心が弱く見えるのは、表面で見えている以上の重荷に怯えているから。少ない自分達の世代で、膨大な数の年寄りを支えるのか。自分達の子供は本当に自分達を支えてくれるのか。終わりの無い未来への不安が心から消える日は無くて、ずっと、心の杯に水は注がれ続けている。だから、少しのことで溢れてしまう。
協調性が無いのも、自分を守りたいから。本当は、誰より何より、誰かと一緒に居たがっている。けれど、この世界は僕らに個性を望む。どうせ皆一緒くたに扱って、同じ形に整える癖に。何か飛び抜けた取り柄がないと、誰も自分を知覚してくれないような錯覚に陥ってしまう。
未来が不安で仕方なくて、いっそこのまま、突然背後からこの心臓を一突きにされてしまいたいとさえ思う。そのまま喉笛を滅多刺しにでもされて、原形も残らないくらいぐちゃぐちゃになってしまえばいい。
今日もまた、死んだように生きている大人たちが町中を闊歩する。誰も彼も同じような服を着て、同じような髪型で。その吐息すら似通っていて、切り取られた個性は疾うの昔に失っている。
それが怖くて仕方ないのだ。大人になったら、僕も彼らのようになるのかと。自分より幼い子供たちに、同じ絶望を与える存在へと成り下がるのかと。
「……ああ、」
大人になんて、なりたくない。毎日のように部屋で零す言葉は、ずっとずっと、このままで、まだ甘えられる子供のままで居たいという、ささやかで、幼くて、到底叶わない願いだった。
テーマ:ずっとこのまま
俺は、生まれたときからずっと一人だった。
親の顔は知らない。街の人々には邪険に扱われ、俺の唯一の友人といえば、路地裏で一緒にゴミを漁るカラスやネズミ達だった。
そんな俺の嫌いなものは、冷たい目でこちらを見つめる大人、弱い者からさらに搾取してくる年上の少年たち、そして、冬。
冬はずっとずっと嫌いなのだ。あの、体の末端を凍らせて砕いてしまうような寒さも、少なくなる食料も。年末だとか言って浮かれる街並みさえ腹が立つ。
それは、大人になって財力を得た今も抜けなかった。今も、町中でクリスマスソングが流れると耳を塞ぎたくなる。雪が降り始めると、もう外に出られない。俺は、冬というものに対して、ある種恐怖症のようなものを抱いていた。
冬の寒さは、俺の体に隅々まで染み入ってきて、その血液ごと凍らせてしまう。布団はおろか屋根すら無い裏路地では、一度体が冷え切ってしまえば暖めるのは至難の業だ。子供の頃は、同じく凍える野良猫やカラスと身を寄せ合い、僅かな食料をネズミと分け合って生きていた。
だから、俺の身にはもう隅々まで寒さが染み込み尽くして、心まで冷えてしまった。誰かを助ける、誰かと過ごす。そういった人間的な行動が、極端に苦手になったのだ。
「ねぇってば!聞いてる?」
物思いに耽っていた俺の思考が、喧しい声に引き戻された。現実逃避のように過去に浸っていたのに、また無理矢理引き戻されて、そのきらきらとした、星の爆ぜるような光を宿した瞳に真っ直ぐ射抜かれる。
あまりに無垢で、あまりに無邪気は目は、俺にとって毒にも等しかった。
「……なんだ。」
「寒くない?さっきから顔色悪いからさ。コンポタ買ってきた!」
むに、と頬に温かい缶が押し付けられて、半ば強制的に受け取ってしまった。無言の訴えに負けて口に含むと、とろりとした黄色の液体が、優しい甘さを伴って喉を滑っていった。
「ね、おいしい?元気なさそうで心配なんだよね。冬、嫌い?」
太陽のような瞳に、さりげなく握られた手の温もりに、胃に落ちていく温かさに、俺の中に染み付いた寒さが解けていく。
血色感の無かった指先に、ふわりと桜色が差した。
「……ああ。……大丈夫だ。」
「え、笑った?今笑ったよね!?ちょ、も、もっかい!もっかいやって!今度は撮るから!」
「馬鹿か。」
目の前で騒がしく喋り続ける彼に、また緩みそうになった口元をそっと手で隠した。
あの冬の寒さは、もうどこにもない。
テーマ:寒さが身に染みて
「かんぱーい!」
田舎の片隅、古くて狭いアパートの一室。そこに置かれた小さなこたつに、いい年の男がぎゅうぎゅうになって座っている。
成人式で再会した、中学生時代の友人。せっかく20歳になったのだから、と、成人式会場から一番近かった俺の家に集って、ちょっとした宅飲み会をすることになったのだ。
誕生日当日に酒を飲んだ奴も少なくなくて、皆、不慣れながらもそれなりに自分のペースで飲んでいた。
そんな中。
「あれあれ〜?一人だけソフトドリンク飲んでるおこちゃまがいるな〜?」
酒精の匂いと浮かれた空気を纏った友人の一人が、少し赤らんだ顔で肩を組んでくる。うざ絡みにも程があるが、事実なので何も言えない。
そう、俺はまだ19歳。早生まれの俺は、皆に混じって酒を飲むこともできないのだ。
「あれ、飲まないの?」
「だってコイツまだ未成年じゃん?」
ぽんぽんと小馬鹿にするように頭を撫でられ、無性に腹が立つ。比較的酔っていない穏やかな友人の声さえ、酒を飲んでいるだけで無条件に癪に障った。
「そっか……あ、待って待って、いいものある。」
そう言った友人が鞄から取り出したのは、洋酒入りのチョコレート。そう、未成年でも、食べるだけならセーフである。
俺は床で潰れている酔っ払い共を避けてその友人の元に近寄り、チョコを貰って口に運ぶ。
噛み潰すと、とろりとした洋酒入りのシロップが溢れてきた。
舌と喉を焼くようなその感覚に、鼻を抜ける洋酒の香り。不慣れな味に、俺は思わず顔を若干顰めてしまった。
「……その感じだと、あんまり気に入らなかったみたいだね?」
にま、と友人が小さく笑う。前言撤回、穏やかだと言ったが、きっと彼も酔っている。
「あっははは!お前、あんな不満そうにしときながら結局子供舌じゃねーか!」
ゲラゲラ笑い転げる友人を軽口足蹴にしつつ、俺は一月後の誕生日、絶対酒を飲んでこいつらをぎゃふんと言わせてやる、と決意して、口の中のアルコールを流し込むようにオレンジジュースを呷った。
テーマ:20歳
夕方。寂れた校舎の3階、踊り場のすぐ横、廊下の奥に追いやられた教室が、僕らの部室だった。
部員は二人。僕らだけ。前は先輩が二人いたが、もつ卒業してしまった。後輩もいないので、僕らが卒業したらきっと廃部になってしまうだろう。そんな部活が、文学部だった。
文学部とはいえ、執筆なんて高尚な真似はしない。静かに本を読んで、ただ感想を共有して、たまにお菓子を食べて駄弁る。それだけである。なんともまぁ地味で、部活らしくない部活なので、入部が強制でない我が校においては不人気なのだ。
「……なに読んでるの。」
僕はひっそり持ち込んだ長座布団に寝そべって本を読みながら、なんとはなしに目の前で本を読む彼に問いかけた。僕と彼は本の好みが大分違うので、お互いあまり読まない本の話が聞ける。
「……ミステリー。」
僕は専ら純文学ばかり読むが、彼はミステリーや探偵ものなんかの謎解きが好きなのだ。僕はそういった思考が得意ではないので、推理しながら読める彼を少し羨ましくも思った。
「ふーん……」
ぼんやり、意識はあくまで目の前の文章に集中しながら生返事を返す。聞いているのかいないのか怪しい返事はもういつものことなので、彼も気にしない。
「……」
ふと、本を眺める彼の横顔を見上げる。彼の目は、夕暮れの光を反射して、鈍く金色に光って見えた。
「……なに?」
ばちりと目が合って、その目が緩く細められる。きゅう、と効果音が付きそうなその動きは、不意に僕の心臓を掴むには十分だった。
緩いカーブを描く金色の瞳は、彼のさらりとした黒髪によく映えて見えて、夜空に光る三日月のようだった。
「……なんでもない……」
それがあまりにも綺麗だったから、つい、月が綺麗ですね、なんて口走りそうになった。
静かな部室は、時計の秒針の音に支配されている。僕らの関係は、まだ動きそうにもなかった。
テーマ:三日月
俺の世界は、基本的に無彩色でできていた。
無論、ただの比喩表現である。俺は別に色盲でもないし、空の青も、炎の赤も見えている。
けれど、どうにも無味乾燥で、いまいち皆の言うような色の美しさが分からない。夕焼けに染まる空を見たって、色が変わったとしか思わない。色褪せていく花を見たって、片付けなくてはとしか思わない。情緒の無い人間だと、よく言われた。色なんてカラーコードで形成されている、数字と英字の羅列でしか無いと、そう信じていた。
さて、そんな俺であるが、出会ってしまったのだ。美しいと、本気でずっと見ていたいと思えるほど見惚れてしまうような色に。
学校帰り、何気なく歩いていた、普段はあまり通らない道。少し細く、まだ舗装もされていないような道だ。そこに、昔ながらの長屋が並んでいて、ぽつりぽつりと店の暖簾が出ている。一昔前にトリップしたような、なんとも言えない不思議な光景だった。
そこで俺は、白黒と茶色、暖簾の紺や臙脂ばかりが並ぶ地味な街並みの中、場違いなほど鮮やかで、よく目立つ暖簾を見かけた。
喩えるならば、網膜を直で照らすような黄色と、瞼の裏で滾る血を滲ませたような赤。それを、絶妙に混ぜ合わせてできたような茜色。
俺は吸い込まれるように、その店に入った。中は、ケミカルなような、油っぽいような、独特な匂いが漂っていた。しかし、不快ではない。
店をぐるりと見回すと、どうやら画材店らしかった。几帳面に壁の棚に並べられた、小さなチューブの絵の具達。固形絵の具は丁寧に積み重ねられ、上に飾られたサンプルは虹をそのまま切り取ってきたようだった。
俺の知らなかった色が、鮮やかさが、ここに詰まっていた。小さい頃、まだ俺が捻くれる前の頃、玩具屋のショーケースいっぱいに詰まった玩具を見ていた時のような、そんな高揚感が胸を満たしていく。
目の前にパチパチと、プリズムのような虹色の光が爆ぜて見える。気付けば俺は、これまでほとんど使い道も無くて中身が増える一方だった財布を手に取っていた。
家に帰って、がさりと紙袋の中を覗き込む。俺の部屋は相変わらず無味乾燥な無彩色だが、この紙袋の中だけ、あの眩しいほどの鮮やかな色に満ちている。
その日、不慣れな震える線で、しかし確かに楽しげに描かれた1枚の虹が、モノクロの部屋に不格好に浮かんでいた。
テーマ:色とりどり