夕方。寂れた校舎の3階、踊り場のすぐ横、廊下の奥に追いやられた教室が、僕らの部室だった。
部員は二人。僕らだけ。前は先輩が二人いたが、もつ卒業してしまった。後輩もいないので、僕らが卒業したらきっと廃部になってしまうだろう。そんな部活が、文学部だった。
文学部とはいえ、執筆なんて高尚な真似はしない。静かに本を読んで、ただ感想を共有して、たまにお菓子を食べて駄弁る。それだけである。なんともまぁ地味で、部活らしくない部活なので、入部が強制でない我が校においては不人気なのだ。
「……なに読んでるの。」
僕はひっそり持ち込んだ長座布団に寝そべって本を読みながら、なんとはなしに目の前で本を読む彼に問いかけた。僕と彼は本の好みが大分違うので、お互いあまり読まない本の話が聞ける。
「……ミステリー。」
僕は専ら純文学ばかり読むが、彼はミステリーや探偵ものなんかの謎解きが好きなのだ。僕はそういった思考が得意ではないので、推理しながら読める彼を少し羨ましくも思った。
「ふーん……」
ぼんやり、意識はあくまで目の前の文章に集中しながら生返事を返す。聞いているのかいないのか怪しい返事はもういつものことなので、彼も気にしない。
「……」
ふと、本を眺める彼の横顔を見上げる。彼の目は、夕暮れの光を反射して、鈍く金色に光って見えた。
「……なに?」
ばちりと目が合って、その目が緩く細められる。きゅう、と効果音が付きそうなその動きは、不意に僕の心臓を掴むには十分だった。
緩いカーブを描く金色の瞳は、彼のさらりとした黒髪によく映えて見えて、夜空に光る三日月のようだった。
「……なんでもない……」
それがあまりにも綺麗だったから、つい、月が綺麗ですね、なんて口走りそうになった。
静かな部室は、時計の秒針の音に支配されている。僕らの関係は、まだ動きそうにもなかった。
テーマ:三日月
俺の世界は、基本的に無彩色でできていた。
無論、ただの比喩表現である。俺は別に色盲でもないし、空の青も、炎の赤も見えている。
けれど、どうにも無味乾燥で、いまいち皆の言うような色の美しさが分からない。夕焼けに染まる空を見たって、色が変わったとしか思わない。色褪せていく花を見たって、片付けなくてはとしか思わない。情緒の無い人間だと、よく言われた。色なんてカラーコードで形成されている、数字と英字の羅列でしか無いと、そう信じていた。
さて、そんな俺であるが、出会ってしまったのだ。美しいと、本気でずっと見ていたいと思えるほど見惚れてしまうような色に。
学校帰り、何気なく歩いていた、普段はあまり通らない道。少し細く、まだ舗装もされていないような道だ。そこに、昔ながらの長屋が並んでいて、ぽつりぽつりと店の暖簾が出ている。一昔前にトリップしたような、なんとも言えない不思議な光景だった。
そこで俺は、白黒と茶色、暖簾の紺や臙脂ばかりが並ぶ地味な街並みの中、場違いなほど鮮やかで、よく目立つ暖簾を見かけた。
喩えるならば、網膜を直で照らすような黄色と、瞼の裏で滾る血を滲ませたような赤。それを、絶妙に混ぜ合わせてできたような茜色。
俺は吸い込まれるように、その店に入った。中は、ケミカルなような、油っぽいような、独特な匂いが漂っていた。しかし、不快ではない。
店をぐるりと見回すと、どうやら画材店らしかった。几帳面に壁の棚に並べられた、小さなチューブの絵の具達。固形絵の具は丁寧に積み重ねられ、上に飾られたサンプルは虹をそのまま切り取ってきたようだった。
俺の知らなかった色が、鮮やかさが、ここに詰まっていた。小さい頃、まだ俺が捻くれる前の頃、玩具屋のショーケースいっぱいに詰まった玩具を見ていた時のような、そんな高揚感が胸を満たしていく。
目の前にパチパチと、プリズムのような虹色の光が爆ぜて見える。気付けば俺は、これまでほとんど使い道も無くて中身が増える一方だった財布を手に取っていた。
家に帰って、がさりと紙袋の中を覗き込む。俺の部屋は相変わらず無味乾燥な無彩色だが、この紙袋の中だけ、あの眩しいほどの鮮やかな色に満ちている。
その日、不慣れな震える線で、しかし確かに楽しげに描かれた1枚の虹が、モノクロの部屋に不格好に浮かんでいた。
テーマ:色とりどり
「……お前、やっぱ肌白いよな。」
「急に何?」
体育の直前、男子更衣室。時間が少し遅いせいか、中には俺と、俺の友人の二人きり。どうせ男同士、気まずくなるような仲でもないので、もはや何も隠さず着替えていく。ストーブもついていない更衣室は極寒で、寒い寒いと騒ぎながら脱いではジャージに着替えていった。
「いや、白いなって。」
目の前で上着を羽織る彼は、男にしては随分小柄で色白。髪質もさらさらとしているのにふわふわで、黙っていれば女子に見えなくもない。
「まぁ……年中引きこもってるし……」
「たしかに。」
自分で言った癖に癪だったのか、無言で数発、横腹を殴られた。けれど、美術部の幽霊部員である彼と陸上部で長距離走をしている俺とでは圧倒的な体格差なのでほとんどダメージにはならない。
「お前のへなちょこパンチなんて効かねぇよ。」
鼻で笑いながら言うと、硬い上履きの爪先で思いっきり脛を蹴られた。弁慶の泣き所に見事入った蹴りは、俺を蹲らせる程度の威力はあった。
「い゙って!?」
「ばーか!人のことバカにするからそうなんの〜。」
今度は俺が鼻で笑われ、癪ではあったが先にやったのは俺なので何も言えず口をつぐんだ。
「でもまぁ……確かに白すぎかな〜……見るからに外出てないですーって感じ。」
自分の腕をまじまじと眺めていた彼が、突然蹲っていた俺の腕を掴んだ。
「お前は結構焼けてるよな……やっぱ陸上部だから?」
無遠慮にぺたぺたと腕を触ってくる手は華奢で、同い年の同性だとは到底思えない。
「うるせー。当たり前だろ、外で走ってんだから。」
「だよね〜……」
目の前の彼を、少し見上げる。普段は見下ろしてばかりなので、この視点は何だか新鮮だ。
「……あ、雪。」
ふと窓を見ると、外では雪が舞っていた。
「え、うそ。……うわ、マジだ!ちょ、触ってこ!」
寒いと喚いていたのはなんだったのか、彼ははしゃいで窓を開けた。寒気が急になだれ込んで、寒さに身を震わせて薄く目を開いた。
真っ白な肌の彼の手に、ふわりひらりと雪が落ちてくる。彼の手に触れた瞬間にじゅわりと溶けて水になって、その白い手を露で濡らしていった。
子供のようにはしゃぐ彼があまりに子供っぽくて、そして雪が似合いすぎて。俺はまた小さく笑って、不思議そうに、かつ何か不満げにしている彼の元に近付いていった。
テーマ:雪
「ね、海行こ。」
放課後、夕暮れの教室で、目の前に立つ彼がそう言ったから、僕は思わず唖然として、鞄に中途半端に教科書を詰め込んだまま、しばらく硬直してしまった。
彼はにこりと笑うと、僕の教科書を鞄に無理矢理突っ込んで、そのまま呆然としている僕の手を引いてさっさと教室から出ていく。
「ちょ、ちょっと待ってっ……え、う、海?なんで?今日平日だよ?」
「知ってるよ、今学校にいるんだから。」
混乱している僕を置き去りにして、彼はどんどん進んでいく。手を引かれている僕も、心は置き去りのままなのに、体はどんどん駅に近付いていく。
ここは、海沿いと言うには少し海から離れているのだ。電車で1時間、そこからさらに歩いて40分。それで、ようやく砂浜を踏むことができる。
わけもわからぬまま、駅に着いてしまった。彼は上機嫌に鼻歌まで歌って、さらりと僕の分の切符まで買ってしまう。2枚の切符を改札に通して、また僕の手を引いてそこを抜けた。慌てて財布を取り出そうとしても、片手が塞がれている状況では、リュックから上手く財布を取り出すことができない。
「いいって。ほら、早く行こ。」
引っ張られ、電車に乗り、暖かな車内で揺られているうちに、段々心も静まってきた。海に行く。ただそれだけのことではないか。僕らだってもう高校生だし、男子ともあればそれなりの力もある。携帯もきちんと持っているし、今から連絡をすれば十分だろう。そう思っても、彼は連絡をさせてくれなかった。スマホを取り出そうとすると、さらりと手を掴まれてしまうのだ。
結局、連絡もできないまま海に着いて、紺碧に染まった空を、もう諦めの境地で見つめていた。
「いこうよ。」
彼がまた、手を差し伸べる。もう、海には着いたのに。頭が何か激しく警鐘を鳴らしている。あの手を取ってはいけない。彼を引き留めなくてはならない。
なのに、体は上手く動かなくて、彼の手を取って、一歩、また一歩と海に足を沈めていく。ローファーが濡れ、水を吸った制服が重くのしかかってきた。真冬の海は冷たくて、足の先が触れただけでも背筋を寒気が駆け登る。
けれど、今は不思議と、何も感じなかった。
「ごめんね。どうしても、君と一緒がよかった。」
泣きそうな笑顔でそう言った彼は、僕の手を引いたまま、急に深くなった海の沖合に身を投げた。
修学旅行、お揃いの色違いで買ったキーホルダーは、冬の夜、痛いほどの静寂に包まれた海に呑まれて、もう同じ紺碧に染まりきっていた。
テーマ:君と一緒に
冬の朝。空は晴れ渡って、雲一つ見当たらない。朝焼け色に染まった空は、眩しいくらいにきらきらと煌めいている。
「…………さむい……」
そんな中、僕は布団の温もりと格闘していた。目覚まし時計を止めるために伸ばした腕は、ものの数秒で温もりを奪われて、代わりと言わんばかりに突き刺すような冷たさが肌に触れる。よく晴れた冬の朝は、いつもこうだ。寒くて起きられない。
「ぅ゙〜……」
意味もなく呻き声を上げてみるが、やはり起き上がる気力は湧いてこない。いっそもう諦めて寝てしまおうかと、とろとろ瞼を下ろしだした時だった。
「なに二度寝しようとしてんだバカ。」
ばさ、と布団が奪われ、代わりに冷たい布が降ってくる。
「早く学校行くぞ。遅刻する。」
顔の上に乗ってきた布を退けて見ると、制服だった。わざわざ取ってきてくれたらしい。
「…………ありがと……」
そういえば、兄にも目覚ましを頼んでいたのを今思い出した。どうせ目覚まし時計だけでは起きられないから、と。普段なら少しくらい二度寝したって平気なのだが、今日は委員会の活動のせいで早起きしなくてはならなかったのだ。
「せっかく晴れてんだからついでに布団干してけ。もう俺の掛けてあるから。」
リビングに行くと、窓際に置かれた物干しには兄の布団が掛けられていた。言われた通り隣に布団を干し、朝食のパンを齧り、寒さに凍えながら着替えて準備が整った。
「ほら、行くぞ。」
呆れたように僕を見て、ガチャリとドアを開ける兄。朝日が逆光になって、兄がドアを開けてくれるだけのことが、とてつもなく幸せなことのように感じられた。
外は冬晴れらしい寒さだ。息を吐けば、当然のように白さを帯びて辺りを漂う。
「……うん。」
少し急いでローファーを履いて、兄の横に並び立った。寒いけれど、澄んだ空はどこまでも晴れ渡っていて綺麗だ。
「……今日、一緒に帰ろ。」
気がつけば、そう言っていた。この冬晴れの日の夕焼けを、わざわざペースを落としてまで隣を歩くなんだかんだで優しい兄と、見たくなってしまったから。
テーマ:冬晴れ