真宵子

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11/23/2025, 7:07:39 AM

僕には、忘れられない紅色が2つある。薄く小さな唇に映える紅と、形の整って筋の通った鼻から滴る深紅。この2色である。
彼とは、田舎の下町の中でも治安の悪い、貧民街に片足を突っ込んだような小さな町で出会った。
文明開化を終えてすぐ、まだまだ江戸の文化が根強く息づいていた時代だ。子供たちの立場は弱く、口減らしに売られることも多かった。彼も、その一人。
街の端、闇を孕んでひっそりと建つ安酒場が彼の職場だった。口減らしで売られた彼は、幇間として雇われている。しかし、治安の悪い地域の安酒場の幇間に、マトモな人権が認められるはずがない。まして、口減らしで親から売られたような子供だ。彼は余計に軽んじられて、時として男の身でありながら遊女の真似事さえさせられていた。
僕はそれなりにいいところの出で、その頃は貧乏ながら作家を目指して書生をしていた。しかし、学校には上手く馴染めず、友人もできず、売れる作家になると大口を叩いた手前親には頼れず借金塗れ。毎晩毎晩希死念慮で枕を濡らし、敷きっぱなしの万年床の上で執筆をするような毎日だった。
ある時、唯一自分を気にかけてくれていた先輩に連れられて、例の安酒場へ足を踏み入れた。そこは酒の匂いと男の欲望が渦巻く、酷く醜く汚い場所だった。
幇間も芸子もあどけなさを残した子供ばかりで、誰も彼もが絶望したような、光を失って死んだ目で緩く笑んでいる。僕は酷く居心地が悪くて、厠に行くと言ってその場を抜け出した。
ふと吹き出した秋風と、それに吹かれた落ち葉の乾いた音で庭に目を向けると、丁度月にかかっていた雲が晴れてきていた。光の差した、すぐ真下。雲の合間から立った光の柱に照らされるように、彼が居た。ここに居る男である以上、きっと彼も幇間なのだろうと思った。しかし、幇間に留めておくにはあまりにも彼は美しくて、その薄い唇に引かれた紅がやけに艶めかしく見えた。これが、一つ目の紅色。
僕はすっかり彼の虜になって、行きたくもない安酒場に入り浸るようになった。借金の額はますます増え、そろそろ桁が一つ上がるかと言う頃。それなりに彼と親密になってきて有頂天だった僕は、いつも通りに安酒場の暖簾を潜り、彼を目線で探していた。しかしその日は彼が居なくて、溜息を吐きながら厠を借りて帰ろうとした。
彼と初めて出会ったあの庭に、彼はいた。横には、この酒場の店主と思しき大柄な男がいる。
その男の無骨な拳が、彼の華奢な頬を打った。何度も何度も、執拗に。折檻である。彼が何をしたかは知らないが、僕はなぜか、得も言えぬような興奮を覚えていた。
彼の鼻から滴る深紅の液体が、わざとらしい色味の紅を流して、彼に一番似合う紅を唇に差していく。それが堪らなくて、罪悪感に苛まれて、僕はそれ以来その店に足を踏み入れることは無くなった。これが2つ目の紅である。
彼は昨日、誰かの元に引き取られたらしい。僕よりずっと背が高く、体格も容姿も整っていて、いかにも裕福そうな男。僕といた時よりずっと綺麗に光を反射する目で男に笑む彼を、下町の裏路地から、彼の姿が胡麻粒程になるまで見つめていた。
僕はあの日から、本格的に文壇入りを果たした。あの紅を描いた小説が、認められたのである。
彼の紅が認められたのが嬉しいような、けれどあの紅は自分の文章なんかでは表現しきれない悔しさのような、そんな感情を抱えたまま、今日も僕は記憶の上を何度も万年筆で擦っていた。

テーマ:紅の記憶

11/22/2025, 6:31:47 AM

ケバいネオンと汚い喧噪に塗れたスラム街。そこが俺達のアジトだ。一本路地裏に入ればお楽しみ中のおっさんと少女に出会い、もう一本入れば死体が転がっている。そんな地域である。
そんな所に住んでいる俺達も、当然普通ではいられない。ここでは、常識とは枷であり、正義はゴミも同然である。何をしようと、やられた奴が悪い。強さは絶対的正義で、弱さは悪。踏み躙られ、好き勝手されたって仕方ない。だから、俺達は強くなった。俺とアイツの名を知らない奴は、このスラム内にはいない。そのくらい強くなったのだ。
元々俺は、ここの出じゃない。元は、スラムより上の地域、普通の世界で暮らしていた。警察雇いのホワイトハッカーとして、難事件をいくつも解決した。
しかし、奴らは俺をいとも容易く切り捨てた。あるサイバー犯罪が起きた時、真っ先に疑われたのは俺達ホワイトハッカーだった。ありとあらゆるシステムの管理状況、パスワード、侵入路からセキュリティまで全て知り尽くしていたことが仇となって、俺は正義から一転、使い捨てられた悪となった。
そのままスラムに流れ着いて出会ったのが、彼だ。彼は元々このスラムで生まれ育ったらしく、言葉も粗雑で知識もない。しかし、馬鹿ではなかった。彼は生きるために、外から流れ着きいかにも怪しかった俺の頭脳を見抜いて近付き、今では相棒の座に登りつめた。このスラムで生き延びていけるような喧嘩の強さは、頭脳戦を得意とする俺と相性がよかった。
今日も2人、格安の狭いボロアパートに身を寄せ合う。ここにある一番高いものは、きっと俺が唯一外から持ち込んだパソコンだろう。このアパートより、俺達の人権や体より、パソコンの方が高いのだ。
少し身動ぎをするだけで軋んで嫌な音を立てるソファの上、2人ぎゅうぎゅう詰めになって座る。俺達はもう大の大人、それもそれなりに身長も高く体格もいい男なので、狭くて仕方ない。
横で煙草を吹かす彼を横目に、ブラックハッカーへと堕ちた俺は、かつての同僚と電子上で対峙している。しかし、誰より長くホワイトハッカーとして勤め、誰よりそのシステムを理解している俺に勝てる者はいなかった。
外では、銃声やら悲鳴やら罵声やら、物騒な音が絶え間なく聞こえている。ぼすりとソファに沈み込んだ俺は、なんとなくで隣に座る彼の肩に頭を預け、2人で元の世界で、普通の世界で暮らせたら、なんて夢を見る。
随分古びて脚の欠けた机の上には、元の世界をなぞるように、せめてこの部屋の中だけでもこの夢を見続けられるように、俺の知っている普通をなぞったような小物の数々が並んでいた。

テーマ:夢の断片

11/21/2025, 7:56:53 AM

「ねぇ、一緒にコレの制作手伝って。」
「は?」
俺しか部員のいないはずの美術部の扉が開いて、突拍子もないお願いをされる。目の前の小柄な男が突き出してきた紙を受け取ると、どうやら近頃行われるイラストコンテストの応募用紙らしい。このコンテストに応募したくて、美術部の俺にわざわざ声をかけに来たようだ。
「……お前、美術得意だっけ?」
彼と俺は同じクラスではあるものの、特に美術が得意だという印象はない。それなのにこのコンテストに応募したいというのは、些か不自然だ。
「いや、美術は全く。からっきしダメ。」
「…………は?」
余計意味が分からない。それならなぜ、と続けようとしたのを遮るように、彼が紙の一部を指差した。
「……文学……」
このコンテストのテーマは、文学。文学を絵で表現するのは少し楽しそうで惹かれたので、話くらいは聞いてみることにした。
「僕、趣味で小説書いてるんだけど。」
「趣味で小説。」
中々変わった男だとは思っていたが、小説を書くのが趣味だとは。何の接点も無かった彼の、新たな一面を見られた気がした。
「僕の書いた小説を、どうにか絵に落とし込んで欲しい。」
彼のお願いを要約するとこうである。彼は絵画も小説も好きで、このコンテストを見たときに応募したい、と思ったらしい。しかし、彼は絵は全く描けない。そこで、合作という形を取りたいようだ。
「……まぁ、いいよ。」
小さく頷くと、無愛想だった彼の顔に若干の喜色が浮かんだ。
いざ制作、となった時、彼からはこれを使ってくれと分厚い原稿用紙の束を渡された。作品の構図を決め、どこに原稿を落とし込むかを決める。そうして、小説のどの部分を切り抜くか決めるために小説を読み始めた。
気が付けば、夜中になっていた。彼はあの無愛想な表情と小柄な体躯からは想像もできないほど、艶めかしく瑞々しい、どこか気怠げな空気を纏った文章を書くようだ。文字の一つ一つに魂が込められているようで、俺は彼の世界に取り込まれてしまった。

今日は、コンテストの結果が発表される。元より入賞はそこまで狙っていないが、どうせやるからには何かしら賞が欲しい。そう思ってサイトを開く。結果は、佳作だった。
それでも彼と作ったものが認められたのが嬉しくて、すぐに彼に電話をかけた。
俺達は夜通し通話を続けながら、インク瓶の向こうのような、或いは筆洗の水の底のような、不透明で先の見えない未来を、2人で歩む同じ夢を見ていた。

テーマ:見えない未来へ

11/20/2025, 7:48:54 AM

何も無くなった、いつかは街だった焼け野原。人類が引き起こした史上最悪で最凶の厄災が滅ぼしたその場所で、今はもう見られない、海の青と砂浜の金を宿した男が一人佇んでいた。
元は港町だったそこは、今はもう見る影もない。あるのは獄炎で焼かれて涸れた海と、澱んだ鈍色の空、赤黒い染みが取れない地面。人類が作り出した地獄に立つ男は、天使にも似た光を放つようだった。
「……なぁ、まだか。もうずっと待っているんだ。」
虫の一匹さえ見当たらない中、男の低く掠れた声がぽつりと零れる。その視線はどこか虚ろで、目の前にある岩の塊だけを見つめている。
「……こんなのお前じゃない……」
かつては苦楽を共にして、温もりを分かち合った戦友。だった岩の塊、もとい墓標に縋るように崩れ落ちる。海と同じ青色の瞳は、海と同じように涙も涸らしてしまった。
ふと、男の無骨な軍用コートを捲り上げるような突風が吹き抜ける。その風は空の分厚い煙の雲を裂き、鮮やかな空の色を描き出す。
「……あ……」
男の脳裏を、いつかどこかで見た彼の目が見つめている。自分のと対を成すような、鮮烈で燃え上がる緋色。そこに少しだけ混じった、高貴で冷静な菫色。戦友の瞳が、確かにそこにはあった。
「……おか、えり……」
泣くことを思い出した涙腺が、涸れた大地に小さな海を作っていく。自分が海ならば、彼はそれを包み込み見守るような空だった。落ちていく日をその目に宿した、温かく優しい彼。あれだけ耳に入れたのに、いつの間にか色褪せてしまっていた声が蘇る。
『泣きすぎだ、バカ。』
焼け野原になった街には、確実に人の気配は無い。けれど、確実に、背後から彼の声がした。
男は振り向くことができなかった。振り向けば、自分の見ている都合の良い幻覚が消えてしまうと分かっていたから。
都合の良い幻覚でもいいから、冷たい石塊でないお前に縋っていたい。
男がそう望んでしまった瞬間、また風が吹き抜ける。それは男の魂さえ喰らい尽くすほど強く、しかし温かかった。

風が吹き去った焼け野原。そこには、墓標を抱いて眠る男の体と、雲の晴れた夕暮れ空だけが静寂の間に生きていた。

テーマ:吹き抜ける風

11/19/2025, 7:57:02 AM

「ようこそお越しくださいました。」

気が付いたら、見知らぬ屋敷の門に立っていた。正確な時刻は分からないが、空の暗さを見るに深夜帯であろう。前方から聞こえた声にぼんやりとそちらを見やれば、執事のような服装の恐らく男が佇んでいる。恐らくと言うのは、声や服装、口調や背格好から推測した結果だからだ。彼の顔は黒い羊のような、山羊のような動物の頭部を象っている。人の体に不気味な動物の頭がくっついているのだ。
「お屋敷の中に入られますか。」
そう言う彼の手には、火の宿っていない、空っぽのランタンが下げられていた。
「屋敷の中は暗いですから。危ないですよ、こちらをどうぞ。」
「いや……あの……火、点いてない……」
「危ないですよ、こちらをどうぞ。」
出来の悪いRPGのNPCのように、同じことを繰り返す。意味の分からないことを何度も聞かされて辟易し、そしてこれ以上この不気味な男と関わりたくなくて、さっさと空のランタンを受け取って門をくぐる。古びた外見と点かない灯りの割に、丁寧に手入れがされた屋敷だった。
入ってみると、外見から一変、中はひたすらに奥まで続く長い長い廊下があるだけだった。廊下だというのが入り口から差す僅かな光で分かるだけで、他に何かあるのかもしれないが。
他にできることも無いので手探りに廊下を進んでいく。視覚を奪われているのと本当に何も無いのとで、永遠にも感じられるほど長かった。壁伝いに歩いていくうちに、いくつか分かった。どうやら、ここは画廊か何からしい。壁に触れる右手に、定期的に額縁のような何かが触れる。
ひたすら進んでいると、それなりに強く頭をぶつけで蹲った。どうやら最奥に着いたらしい。せめて何かあってくれ、と願いながら壁を探ると、何か出っ張ったものが指先に当たった。感触からすると金属製の箱のようなもの、中央にはさらに謎の丸い出っ張り。直感的に、ボタンだと思った。普段なら警戒して絶対に押したりしないのに、俺はなぜかその時、深く考えずボタンを押した。
途端、空っぽだったランタンにぼんやりと光が灯る。どういう仕組みかは分からないが、一先ず光源を入手した俺は安堵感に包まれながら、それ以上見るものも無いので来た道を戻ることにした。
カツカツと硬質な足音が響く。画廊だと思っていたこの廊下に飾られていたのは、絵ではなく鏡だったらしい。思考にノイズが混じっていく。鏡に映る自分の顔には、赤黒い液体が点々とこびり付いていた。
そうだ、殺したんだった。
ふわふわとして夢見心地だった足取りが、急に現実に引き戻される。幾重にも反射する鏡の中の自分が、責めるような目つきで俺を見る。
少しずつ、記憶が戻っていく。動機、手段、凶器、場所、時間。そして、相手の顔。記憶が一つずつ戻る度、ランタンの火は赤みを増していく。
出口のドアに着く頃には、手元のランタンはあの日の部屋の中のような鮮烈な赤を灯していた。頭は警鐘を鳴らして止めようとするのに、体は操り人形にでもなったかのように勝手に扉を開く。
「おかえり。」
目の前に、あの羊頭の男が立っている。顔を上げたくなかったのに、顎を掬われて目を合わせられてしまった。
「痛かったよ。すごくね。痛かった。痛かったんだ。」
目の前にいるのは、羊の頭をした悪魔なんかじゃない。あの日俺が殺した、彼。

がばりと身を起こして、冷や汗で湿った布団を握り締める。あれは夢だ。俺のせいじゃない。そう、事故。不運な事故、だったんだ。
夢の中の彼の目が網膜に焼き付いて離れない。夢だ夢だと譫言のように繰り返す俺の背後には、空になって煤けたランタンが一つ、転がっていた。

テーマ:記憶のランタン

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