人生には地図が必要だ。
地図があれば自分が今いる場所が分かる。向かうべき場所も分かる。どのような道程を辿れば目的地にたどり着けるのか、そこに到着する近道や手段をおおかた推測できる。
逆に地図がなければ、自分が今どこに立っているのかもあやふやで、向かうべき場所の地名すらわからず、五里霧中の状態で彷徨い歩くはめになってしまう。
今の俺がまさしくその状態である。
というのも、俺は少し前に人生の地図を紛失してしまっていた。
その理由は過去にここに記した気がするので省く。
誰もなにも言ってこないとはいえ、なんか自分の失敗談みたいなのを晒すのって恥ずかしいので、何度も書きたくない。
とりあえず人生の地図がないと日々の生活の中で困ることを挙げてみよう。
困ること、その1。
(あー、今日も疲れた。明日も疲れるんだろうな。やだな……)
バイト帰り、心の中でボヤきながら道を歩く。バイトの行き帰りでいつも歩いているいつもの歩道だ。下手したら両目をつぶっていてもボロアパートに歩いて帰れるんじゃないかってくらい体に染みついている何百回も行き来した道である。
つまり今の所、地図がなくてもちっとも困らない。
あれ……? 帰りながらボケっと考えている時は何かに困っていたはずなのだけど、その内容をすっかり忘れてしまった。
あとになって文に書き起こしてみても何も困っている様子は見受けられない。ただ人生に疲れた独身男が心の中で弱音を吐きながらトボトボ歩いているだけの光景だ。
なんだこれは……
とにかく、なんにも困ってなさそうなので、困ることその1は忘れてくれ。
困ること、その2。
(結構、貯まってきたな)
なにが?というと貯金である。
老後2000万円問題(かいつまんで説明すると老後は金がいるからみんな貯金を2000万円しろ!って感じのやつ)とよばれるものが話題になった時、俺は焦った。
月末に給料が入ると有無を言わさず家賃が差し引かれ、さらにそのうえ光熱費や通信費なども否応なく引き落とされていく。とはいえ、金のかかる趣味もない男の一人暮らしなので、それでも結構な額が残る。
2000万円問題が提起されるまでの俺は、その結構残った金を無意味に浪費していた。
たいして食べたくもないシュークリームやアイスやお菓子をコンビニで買ったり、日々の疲れを癒すためと口実をつけて週3ペースでスーパー銭湯に通ったり、とまぁ、とにかくやりたい放題だった。
そんな俺を戒めるように告げられたのが老後2000万円問題だ。もう一度言う、俺は焦った。
元来、単純な性格なので、偉くて頭の良い人から2000万円貯めろ!と言われたら貯めずにはいられない性分だった。
なにかを始めるのはとてもしんどいが、遅いということはないはずだ。
自分にそう言い聞かせて浪費をやめ、月2万円ずつ貯金していくようにした。
最初の貯金額6万円の頃はきつかった。こんなもん貯めても意味ねーや、2000万円なんて天文学的な数字、貯まるわけがない。馬鹿らしい、ケーバやって負けて寿司でも食おうという誘惑に負けそうになった。
だがなんとかグっと堪えて月日を重ねると、6万円だった貯金は数十万円になっていた。俺はもう、その金に手をつけようとは塵ほども思わなくなっていた。この金が増えることはあっても減ることはあってはならないという、なかば強迫観念のようなモノにとらわれていた。
これを世間の人は貯金するというのだろう。
さて、ここで本題に戻る。
先述した通り、俺は人生の地図を紛失してしまっている。目標もなければ、行きつく先の目的地すらない。
2000万円貯めてどうする……?
そもそも、ほぼ毎日、やめようやめようと口にしつつもやめられない酒を飲んで夜更かしして、話し相手はもっぱらVチューバーな孤独死まっしぐらの道をひたむきに突き進んでいる俺が、ヨボヨボの爺さんになるまで生きられるのかも怪しい。
2000万円貯めなきゃいけないのは守るべき人がいる人たちであって、俺を指しているのではないんじゃないだろうか。
そう考えると何もかも馬鹿らしくなってくる。
書いていて気分が落ちてきた。
今すぐにでもオンボロアパートを飛び出して、失くしてしまった人生の地図の捜索に出かける必要があった。
けれどそれはたぶん、この世のどこを探してみても見つからないだろう。
だって失ったというより、俺が自分で書いて自分で破り捨てた地図だ。他の誰にも同じものは書けない。
だから古い地図に固執するのはやめて『新しい地図』を書こう。
心の中のキャンパスに色とりどりの絵の具を使って描く。
記念すべき最初の道程は最近、近所にオープンしたディスカウントストア。
その店で購入するのは豚こま肉と、値段が落ち着いてきた春キャベツ、それから缶チューハイと第三のビール。
豚肉とキャベツを煮て、ポン酢で食べる。一気にビールを流し込む。最高の晩酌って感じだ。
俺の『新しい地図』は、ここに完成を見た。
本日のテーマ『またね!』
別れの挨拶だ。
しかし悲観的な意味合いではない。むしろ『また会おうね!』と『また会えるよね?』が含まれた希望に満ち溢れた素敵な挨拶である。
もっとも俺自身は産まれてこのかた、その言葉を一度たりとも口にしたことはないのだが…
小さな頃から俺の別れの挨拶は『バイバイ』だった。
それは父さんがハンディカメラで撮った映像に残されているビデオテープを実家に帰った際に見返して確認しているので間違いない。
例えば、走り去る電車を見て『バイバイ』と手を振る俺。
オリの中に閉じ込められている動物園の動物たちに『バイバイ』と手を振る俺。
親戚の集まりで叔父さんが実家に帰ってきた時、母さんから『おじちゃんにバイバイしてあげて』と頼まれても恥ずかしがってバイバイしない俺。
このように俺の別れの挨拶は『バイバイ』と共にあった。
しかし高校生になると周りの友達は皆、別れの際に『ほな!』や『じゃーの』を使用するようになってしまった。一人だけ手をブンブン振って『ばいばーい』というのもなんだか子供っぽくて恥ずかしかったので、俺はその言葉を封印した。
ちなみにその頃の俺が使っていた別れの言葉は『…ん』とか『んじゃ』だ。『ほな!』や『じゃーの』っていうのもそれはそれで恥ずかしかったので、そんな感じになってしまったのだが、その挨拶も今になって思い返すとどうかと思う。社交性ゼロの無愛想なコミュ障みたいだ。
だいたいそれで合ってるけど…
…話を戻す。
高校を卒業して専門学生になると皆『お疲れ~』と言うようになった。なんなら解散する時だけじゃなく、朝の挨拶も『おはよう』じゃなくて『お疲れ~』だった。みんな小遣い稼ぎ程度のアルバイトやそれほどしんどくもない学校の課題に精を出したり、男女関係の面倒臭い青春に空回っていたりして、無意味に疲れていた。だからきっと顔を合わせた際に用いる挨拶が『お疲れ~』だったのだろう。
そして現在。
大人になった俺が活用している挨拶は『お疲れ様です』だ。
仕事をあがる時、職場の人に『お疲れ様です』
スマホで送るメッセージの文頭にも『お疲れ様です』
推しのVチューバーが配信を終了する時に送るコメントも、もちろん『お疲れ様です』だ。
このように別れの挨拶として『またね!』が入り込む余地など俺の人生のどこにもないのだ。
でも一度でいいから口にだして言ってみたい。『またね!』って。だって、とても素敵な言葉だ。
明日、言ってみようかな。
バイトが終わった後、店長や後輩たちに向かって『またね!』って爽やかに微笑みながら片手を軽く挙げて。
いや、やっぱりよそう。そんなキャラじゃない俺がやったら誰からもツッコミすら入れてもらえずに気まずい空気な感じの誰も何一つとして得しない最悪な状況に陥ること間違いなしだ。
死ぬまでに一度でいいから口にする機会があるのだろうか。
だれか俺に『またね!』って言わせてくれないか?
その時は最高の笑顔で言うと約束するから。
本日のテーマ『小さな幸せ』
人生はトータルで見るとトントン、という説がある。誰が言いだしたかは不明だ。
たぶん『人生山あり谷あり』というコトワザを現代風に噛み砕いて伝えているのだと思う。が、そんなのは、新旧関係なくどっちも嘘っぱちだ。
いいこともあれば、わるいこともある、それが人生……? 最終的に振り返れば、いいこともわるいことも同じくらいある?
うそつけ! 俺の人生は悪いことしかおこってないぞ!
それはこれまでここに書き記してきた俺の生活状況を見直してもらえれば理解して頂けるだろう。良いことなんてなにもない、悪いことばっかりだ。
むしろ悪いことばかりが連鎖して積みあがってきたのが俺の人生なのだ。こんなの、ぷよぷよで例えると、邪魔なぷよを消さないまま積み上げているだけのノータリンと一緒だ。
『人生トントン説』に関する論文があるなら、俺が今までここに書き記してきたものたちを逆説として発表したいくらいである。相手にもされないだろうが……
とにかく……
(ちくしょう、なにが『小さな幸せ』だよ……)
なんの罪もない本日のテーマに対して心の中で悪態を吐く。
だって、そうだろう。
お米が高くて買えないから、レトルトカレーのルゥだけを食べているおっさんのどこに幸せがある。
ゴミまみれの部屋で駄文を書き散らす独身男のどこに幸せがある。
先日届いた賃貸契約更新書に記されていた更新料の支払いと火災保険の支払いをお願いしますってなんだ?
ギィギィギィギィうるさい、買ってからだいぶ経つ壊れかけのデスクチェアの不快な音のどこに幸福を見つけろというんだ。
(なぜだ、なぜ俺ばっかり、こんな……)
部屋の掃除をしていないので風水的に最悪な状況だからか?
それとも、しばらく母方の先祖の墓参りに行っていないからか?
あるいは、幼い頃に神社の狛犬の足元に置かれていた神秘的な宝玉を「みてみてみんな、きんたまだ~」とか言って、からかったせいか?
不幸になる原因の心当たりはいくつかあった、が……
朝(昼)シャワーを浴びリフレッシュして、少しだけ部屋を片付けた俺はお気に入りの音楽を聞きつつ朝(昼)から缶チューハイを飲む。
ベランダに続く引き戸を開けて部屋の空気を入れ替える。寒くもなく暑くもない。季節は春、ご機嫌な陽気だ。
イヤホンから聞こえてくる優しい音楽に合わせるようにしゃがれ声で鼻歌を口ずさみながら、ギーギーうるさい椅子に座って、この文を書く。
心のイガイガはいつの間にか消えていて、少しだけ心は軽くなっていた。
全然関係ないが、道端で名も知らぬ野花を見た時に「綺麗だな、なんて花だろ?」っていう人が好きだ。俺にはその感性がないから。だって、花は花だ。
それと同じように幸せは幸せだし、不幸は不幸だ。そして、どっちを見つけるのが簡単かと問われれば、不幸のほうだと思う。
いや、つまり、なにが言いたいかというと、うーん、腹が減ったら食べ、飲みたくなったら呑み、眠たくなったら寝る、そんな山賊か動物みたいな感覚で生きている俺が言語化するのは難しい。
ただ、なんとなく今は気分がいい。
それを言語化すると『小さな幸せ』、なのか?
『ひそかな想い』
人前ではできるだけ明るく振る舞うようにしている。
俺は目つきが悪いし眉毛も鋭角で攻撃的な形をしているし、輪郭もカマキリみたいでとっつきにくい印象を持たれがちなので、顔はともかく性格のほうはせめて愛嬌ある感じでいようと努力しているのだ。
それでもたまに気分が落ちる時がある。
バイトから帰宅すると寝袋を羽織って(暖房代がもったいないので)椅子に座って一人で今日一日の反省会をしたりする。
(また喋りすぎてしまった……)
聞かれてもいないのにバイト先の後輩に『俺は家ではエアコンつけないで寝袋を着て過ごしてるよ。だから電気代3000円とかだよ』とペラペラ得意気に語り聞かせてしまった自分が嫌になる。
だるい……
おまけになぜだか胸が苦しい。
明日バイトに行きたくない。消えてなくなってしまいたい。
今日一日をなかったことにしたい……
考えるのをやめたい。だけどやめようとすればするほど今日の自分の失態が頭の中でフラッシュバックしてモヤモヤして脳の血管を詰まらせて気分が悪くなっていく。
気晴らしに推しのVチューバーのゲーム実況アーカイブ配信を視聴してみる。
『グイグイきすぎだろ、コイツ!! ちょっとは遠慮しろよ!』
なにか巨大なモンスターと戦いながら吠えるVチューバー。
グイグイきすぎ……
ちょっとは遠慮しろ……
俺のことなのか……?
どうして俺は、いつもいつもいつも話題を作る時にどうでもいい自分の話を相手にぶつけてしまうのか。
それによって相手が反応に困ったりすることすら考えられない自分勝手な人間なのだろうか?
最低だ、俺。
『エアコンつけたほうがいいすよ。風邪ひいたらもっとカネかかりますよ』
バイト先の後輩から返された言葉が頭をよぎる。
仰る通りである。我慢して寒いなか凍えるくらいなら素直に暖房つけろやって話をオブラートに包んで伝えてくれているのだ。俺とは数年歳が離れているが、彼のほうがよっぽど大人だ。
そう思うと俺の人生っていったいなんなんだろう……
だいたい俺がユーチューブでゲーム実況をやってみようかなって言った時に『そんなの今時、再生数稼げないすよ』て馬鹿にしてたくせに、いつの間にか後輩もユーチューブを始めてゲーム実況動画で登録者数2万人を超えていて、それで俺にも自分のチャンネルを登録するように促してくるのはなんなんだろう。
ああ、だめだ。
また他人を蔑むようなことを言ってしまった。
こんなんだから後輩からも誰からも尊敬されないんだろうな。
みんな、どうしてあんなふうに息を合わせて喋るのが上手なのだろうか。なぜ俺だけズレてる感じがするのだろう。
他人と話す時はいつもこんなふうに感じる。
……と、言うような話をバイト先の後輩に話して聞かせたら
『だからダメなんすよ。難しく考えすぎです。俺も先輩の話なんて半分しか理解してないすから。そんなもんすよ』
と、言われた。
俺は後輩のことがほんのり嫌いで少しだけ好きだ。
これが『ひそかな想い』ってやつか
買い物をして電車に乗って帰る。
商品が入ったレジ袋を座席に座った状態で膝に抱えてくつろいでいる俺。
目を閉じ妄想する。
家に帰ったら今日買った食材で作る予定のビーフシチューについて考えているのだ。
頭の中では既に完璧なシチューが完成していた。美味しそうだ。
ごくりと唾を呑む。
すると唾液が気管に入り、急にむせた。
「んん、こほ……」
小さく咳払いをする。
瞬間、乗客の皆さんの視線が一斉に俺へと向けられた。
いろんな感染症が流行っているのでそうなるのも仕方がない。
だがここで「すんません、唾が変なとこに入っちゃったもんで……病気じゃないですよ……へへ……」と言い訳をするわけにもいかない。知らない人たちの前でそんなことしたら、それはただのやばいやつだ。
そんな状況で、よりにもよって俺は、盛大に咳き込みたい状態にあった。
咳払い程度では気管支に入った異物を除去できていなかったのだ。今すぐ「ゴホッ!ゴホゴホッ!」と声に出して思いっきり咳き込みたい衝動に駆られる。
だが、できない。
俺にそう思わせるだけの謎の圧力が車内に満ちていた。
それはおそらく感染症への恐怖からくるものだろう。現に車内にいる8割の人はマスクを着用していた。ちなみに俺はマスクをしていなかった。なので、なおさら咳なんてできない。
『次は〇〇駅です。The doors on the right side will open…』
車内アナウンスが流れる。俺が降車する駅まであと2駅だ。それまで我慢して、降りたら盛大に咳き込んでやろうと決め、無心で英語の部分のアナウンスを心の中で翻訳する。たぶんドアが右に開きますよ、という意味だろう。
などと考えていると……
「こほっ……」
急にきた。咳が。きっと、よく知りもしない英語のことを考えて油断していたせいだ。
それはさておき、コップに限界まで水をいれても表面張力というやつで溢れそうで溢れない現象がある。もうあと一滴でも水をいれたら零れるだろうって感じのやつだ。
その状態が、その時の俺だ。
だから溢れた。咳が。
「ごほっ!!ゴホゴホッ!!ゲホッ!!!」
本日のテーマ『あなたのもとへ』
俺のもとに注がれた視線の話。