『物語の始まり』を目にした時、俺はいつも目を輝かせて食い入るように画面を見つめている。
いくつか例を挙げる。
たとえば映画。
目が覚めると病室。辺りはシーンと静まり返っている。長い眠りから覚めた状態で意識が混濁しているのもあって、何がなんだか分からないといった表情で病室から出てあたりの様子を覗う主人公…
周辺に転がっている半壊した車椅子や散らばった書類、それに血塗れの脱ぎ捨てられた白衣…自分が眠っている間に暴力的な出来事が病院内であったのは確かだ。その原因を探るべく不穏な雰囲気に臆しつつも光が差す方向へ歩を進めていく主人公…『物語の始まり』として完璧だ。
たとえばゲーム。
近未来的な工業コンビナートのような情景の一部分に画面がズームアップされていく。
そこに走っているのは電車。ホームに停車した電車の中、ではなく、なんと上から飛び降りてきた謎の集団が『なにやってんだお前ら!?』と駆け寄ってきた駅員を蹴り飛ばして気絶させる。
駅員を一蹴した謎の集団が走り去って行った後、一呼吸おいて電車の上から飛び降りてきた謎の集団のリーダーと思われる筋骨隆々な浅黒い肌の男が最後に降りてきた金髪ツンツン頭の男に向かって言う。
『行くぞ新入り! 俺に続け!』
そこでイベントは終わり、プレイヤーは金髪の男を操作できるようになる。何がなんだか分からないままそれでもとりあえずリーダーの後を追うしかない。隠された謎を解明するために前に進む。『物語の始まり』として最高の導入だ。
たとえば現実。
目が覚めるとボロアパートのベッドの上。
仕事が休みなので電車に乗って近くのショッピングセンターでやっているフリーマーケットを覗きに行く。
茶碗の良し悪しなんてなんにも分かってないくせに、青色の綺麗な飯茶碗を手に取って眺める。つけられている値札を見たら800円もしたので壊さないようにソっと定位置に戻す。
フリマの催しに伴って出店している屋台でたこ焼きでも買って食べようかと思ったけど、お金がもったいないと思い直して往復の電車賃だけ使って何も買わず何も発せぬままアパートに帰宅して酒を飲む。
『物語の始まり』において最悪の始まり方だ。何かが始まる気配すらない。酒を飲んでしまっているので今日一日が無駄に終わるだけまである。
それでも俺とて出来る限り家に閉じこもらないことを心がけている。
それは自分から動かなければ何も始まらないのを俺は知っているからだ。まぁ動いてみたところで事態は好転しないので結局一緒なのだけれど。
俺が取っている行動は仰向けになってしまったセミが起き上がろうと必死にもがいているのと同じで、やってみたところで無駄な足掻きなのと同義なのかもしれない。
しかし映画やゲームで例えたのだからそれらにならうと、俺の人生なんて視聴やプレイを始めてからまだ30分を過ぎたくらいのはずだ。
30分間なんてグダグダでしょうもない日常を延々と描写されていたとしても、そこから一気に面白くなってきたり、どんでん返しがあったりするのを期待できる微々たる時間である。まだ慌てる時間ではないのだ。
……そうだよな?
誰にともなくたずねてみる。
『ひとひら』
そう聞いて何を思い浮かべるだろう。
大半の人は桜の花びらが宙に舞う様を連想するんじゃなかろうか。
逆に他に何があるのだろう。足りない頭を使って考えてみるものの、しゃぶしゃぶの肉を『ひとひら』ヒョイっと掬って口に運ぶ。うーん、美味しい、くらいしか思い浮かばない。そんなので一つのテーマを書き上げられるはずもない。
なので、本日のテーマは休みの日に家に閉じこもってソーシャルゲームや動画投稿サイトの視聴に没頭してないでたまには外へ桜の見物にでも出かけてみたらどうだ?と遠回しに告げられているように感じた。
なにはともあれ、そう決めたら行動は早かった。
着替えて帽子を被り外出する。
外は快晴だった。
直射日光を浴びないように帽子を装着していたのに、それでも降り注ぐ光の暴力によって反射的にどでかいクシャミがでた。
太陽光を直視した際にクシャミが出る現象のことを『光くしゃみ反射』というらしい。
この症状は日本人の約25%の人に認められている遺伝性のものである。どうでもいいことだが、主な症状は眩しさを感じるとクシャミが出る、それだけだ。たぶん俺のご先祖様はモグラかミミズだったのだろう。
そんなことを考えながらとぼとぼ歩いていると、ほどなくして公園に到着した。
近くにあったベンチに座って満開の桜並木を見物する。
『ひとひら』というか、大量の花びらが頭上から降ってきた。肩に積もった桜の花びらを埃でもはらうように排除する。風情の欠片もない。
しばらくの間ボケっと桜を眺める。
…詩的な言い回しはおろか、本日のテーマ『ひとひら』に関するネタすら降ってこない。
歳のせいか、それとも元から空虚な人間性なのが原因か、とにかく感受性の燃料が完全に枯渇している。
ベツに拗らせて斜に構えているわけではない。桜を見たら俺だって『綺麗だな~』って思う。『綺麗だなぁ』って思った後、3分くらいで『さあ花も見たし帰るか』ってなるだけだ。
…言い訳したつもりなのに文章にすると尚のこと拗らせた嫌なやつに見えてくるのが不思議だ。
無言でベンチから立ち上がる。
そもそも正味の話、花見が目的で外出したわけではない。
俺は帰りにスーパーに立ち寄って、ボディーソープと台所用洗剤と酒を購入して自宅に帰宅した。
ボロアパートに帰って上着のパーカーを脱ぐ。
この時、花見の際に付着していた桜の花びらが『ひとひら』パーカーから零れ落ちてくれれば、なんだか良い感じに話をまとめられたのになぁ、と、ふと思った。
…現実はそんなに甘くないか。
今日のお題『元気かな』
そう訊かれたので答えてみる。
体の状態で言うとスーパー銭湯で誰かにうつされたと思われる水虫は高い塗り薬を塗布しているのに一向に治る気配をみせないし、心の状態で言うとなんだかよく分からない感じで金がぶっ飛んでいく時期なので、漠然とした将来への不安が募って気分が沈んでいる。
ようするに、あんまり元気じゃない。
でも現実でそう人に訊かれたら俺はきっとこう答える。
「ああ、はい、元気ですよ、はは……」
思い返してみれば、小学生の頃に朝のHRで先生から今日の体調を訊ねられた時以来、ずっとそうだった気がする。
だって皆だって嫌だろう。
『元気ですか?』って何気なく聞いてみたら『元気じゃないです…』ってしにそうな顔で呟いて急に自分語りを長々と話し始めるヤツなんて。
俺だってそうだ。
『元気かな』って聞かれたら本当は元気じゃなくても「元気ですよ~! 今日も一日頑張りましょ~」ってカラっとした笑顔で言ってくれる人のほうが好きだ。
だから俺もそうしている。
……ぶっ壊さなければならない。そんな悪しき建前は。
そもそも皆なにかしら体や心に不調を抱えながら現代社会で生き続けているのだ。元気なわけがない。
元気がない時には『元気じゃないです……』って言うべきである。助けてほしい時には『助けてください』と言うべきなのだ。
皆がそう言える世の中にするためにも意識改革を行う必要がある。
そのために俺は今のろくでもない人生の全てを犠牲にできる覚悟があった。
とは言ったものの……
(さて、どうするか……)
ディープステート関係の陰謀論を声高に語るユーチューバーの動画を視聴しながら考える。
やはり、ここは味方を集めるべきだろう。
一人で叫んでみたってそれは俺が見てるユーチューバーのように、ただの気が触れた頭のネジが外れた人だ。けれど皆で言えばおかしいことでも正論のように思えてくるのを俺は知っていた。
仲間を集めなくては……
スマホを開いてアドレス帳を見る。ちょうどよく高校や専門学生時代の旧友たちの名前が並んでいた。
『みんな、突然だけど聞いてくれ! 元気じゃない時に元気ですって答えなくてもいい世の中にしよう!』とショートメッセージを作成し一斉送信しようと思ったが……いや、思う前にやめた。
かつての同級生たちは家庭を持っている人や、それなりの役職に就いている人もいる。黙って縁を切られるだけならまだしも、優しい旧友たちは良い大人になった俺を説教してくるかもしれない。大人になってからの説教はありがたいが、される本人はたまったものじゃない。新社会人の人は知っておいてほしい。大人になってから叱られるのって一番効くのだ。
それはさておき、旧友たちの名前を久しぶりに目にして懐かしさを覚えた。
みんな『元気かな』
もう何年もやり取りしてない人がチラホラいるけど、名前を見れば、かつての面白い思い出が頭に浮かんでくる。
元気でいてくれたら嬉しい。
ユーチューバーによると、世界はエイリアンと契約を結んでいる上流階級の人々に支配されているらしい。だとしても俺は大切な人たちが元気でいてくれればそれでいい。
その人たちが今元気じゃなかったとしても、『元気かな』と思いを巡らせるのは俺の自由だ。
仮に『元気かなと思って』とメッセージを送っても、みんなは『元気だよ、そっちは?』と返してくれるだろう。
そう返してほしいと俺も望んでいる。
だから意識改革の件は白紙に戻そう。
そしてくだらないことを考えるのはやめて仕事に行こう。出勤の時間だ。
いま住んでいる部屋に引っ越してきて間もない頃ホームセンターで観葉植物を購入した。
緑色をしたモノは風水的に健康や癒しの意味があり、さらに金運までアップするといういいことづくめのアイテムなのだ。
先祖の墓参りや正月の参拝といった古の習わしを重視しつつ、自分に役立つ新しい情報は即座に調べて取り入れられる柔軟性を持った、まさしく温故知新の権化といっても過言ではない俺がそれを部屋に置かない理由はどこにもなかった。
「元気に育てよ」
俺は霧吹きで観葉植物に水をやって百均で買ってきた植物用の活力剤のようなものを与えてやった。
それから数年後、現在。
引っ越してからしばらくは綺麗に整頓されていた俺の部屋は、今となっては見る影もないほどに荒廃していた。
フローリングの床の上に直置きされた電子レンジの上に積み上げられている封すら開けていない書類の数々……
そのすぐ横には年中出しっぱなしのままな埃まみれの扇風機が我が物顔で狭い部屋のスペースを陣取っている……
そこから少しもない距離には適当に上へ上へと重ねられていった結果、ピラミッドのような形を保っている洗濯物の山々……
視線をちら、と移した先の玄関方面には大量の空き缶が詰め込まれているゴミ袋たち……
そして床の上に等間隔で並べられている、ちょっとだけ中身の入ったペットボトルの容器達。なにかの儀式だろうか……
とにかく俺の部屋はめちゃくちゃな状態だった。少し前に片付けをしたはずなのに、それからなにもしてないはずなのに、ほんの少し目を離すと自動的に部屋の中はゴミで溢れかえっていく。俺は呪われているのか?
はっきりいって俺の住んでいる部屋はゴミ屋敷一歩手前の状態だった。
もはや風水がどうとか暢気に語っている場合ではなかった。
しかし、そんなさんさんたる有り様の環境でも緑のモノは力強く生きていた。そう、昔ホームセンターで購入した観葉植物だ。
パソコンデスク横の台の上に鎮座しているソイツを見て思う。
(おまえは不死身か?)
俺がそう思うのも不思議ではない。
この観葉植物はどれだけ暑かろうが寒かろうが、水さえ与えてやっていれば枯れることなく今まで成長を続けてきていたからだ。
そこらへんの屈強な雑草を引っこ抜いてきて鉢に植え替えて販売していたんじゃなかろうか、と疑ってしまうくらいにはとんでもない生命力の持ち主である。
(そもそも、おまえはなんていう名前の植物なんだ? このまま育てていれば花を咲かせたりするのか?)
何年もただの草のままだったのに今になって急に開花したら、それはそれで本当に呪いみたいでちょっと怖いが。
冬が終わり、季節が変わる。春が訪れた。
暖かくなってきて、これからたくさんの花たちが咲き誇っていくのだろう。
けれどコイツは咲かない。咲けない。いつまで経っても得体の知れない正体不明な観葉植物のままである。俺と一緒だ。
生まれた時から草であることを宿命づけられている俺達は『フラワー』、すなわち花にはなれない。
けど雑草はしぶとい。こんなゴミ屋敷の中で水と酒を栄養に変えて生き続けている俺達が言うと説得力に重みが出る。
(そうだろ、相棒……?)
テレパシーで観葉植物にたずねてみる。むろん答えは返ってこない。
『フラワー』みたく可憐で直感的に人の目を惹く魅力はないが、俺達みたいな謎の草にも見る人が見ればわかってくれる泥臭い美しさがあるはずだ。
(そうだよな、相棒!)
観葉植物に向けて言い聞かせるように強めの念波を送る。もちろん、うんともすんとも言っちゃくれない。当たり前である。ばかみたいだ。
……非生産的なことを考えるのはやめて、ふう、と一息つく。
……とりあえず美しさ云々を語る前に汚部屋の片づけをしようと心に決めた瞬間だった。
人生には地図が必要だ。
地図があれば自分が今いる場所が分かる。向かうべき場所も分かる。どのような道程を辿れば目的地にたどり着けるのか、そこに到着する近道や手段をおおかた推測できる。
逆に地図がなければ、自分が今どこに立っているのかもあやふやで、向かうべき場所の地名すらわからず、五里霧中の状態で彷徨い歩くはめになってしまう。
今の俺がまさしくその状態である。
というのも、俺は少し前に人生の地図を紛失してしまっていた。
その理由は過去にここに記した気がするので省く。
誰もなにも言ってこないとはいえ、なんか自分の失敗談みたいなのを晒すのって恥ずかしいので、何度も書きたくない。
とりあえず人生の地図がないと日々の生活の中で困ることを挙げてみよう。
困ること、その1。
(あー、今日も疲れた。明日も疲れるんだろうな。やだな……)
バイト帰り、心の中でボヤきながら道を歩く。バイトの行き帰りでいつも歩いているいつもの歩道だ。下手したら両目をつぶっていてもボロアパートに歩いて帰れるんじゃないかってくらい体に染みついている何百回も行き来した道である。
つまり今の所、地図がなくてもちっとも困らない。
あれ……? 帰りながらボケっと考えている時は何かに困っていたはずなのだけど、その内容をすっかり忘れてしまった。
あとになって文に書き起こしてみても何も困っている様子は見受けられない。ただ人生に疲れた独身男が心の中で弱音を吐きながらトボトボ歩いているだけの光景だ。
なんだこれは……
とにかく、なんにも困ってなさそうなので、困ることその1は忘れてくれ。
困ること、その2。
(結構、貯まってきたな)
なにが?というと貯金である。
老後2000万円問題(かいつまんで説明すると老後は金がいるからみんな貯金を2000万円しろ!って感じのやつ)とよばれるものが話題になった時、俺は焦った。
月末に給料が入ると有無を言わさず家賃が差し引かれ、さらにそのうえ光熱費や通信費なども否応なく引き落とされていく。とはいえ、金のかかる趣味もない男の一人暮らしなので、それでも結構な額が残る。
2000万円問題が提起されるまでの俺は、その結構残った金を無意味に浪費していた。
たいして食べたくもないシュークリームやアイスやお菓子をコンビニで買ったり、日々の疲れを癒すためと口実をつけて週3ペースでスーパー銭湯に通ったり、とまぁ、とにかくやりたい放題だった。
そんな俺を戒めるように告げられたのが老後2000万円問題だ。もう一度言う、俺は焦った。
元来、単純な性格なので、偉くて頭の良い人から2000万円貯めろ!と言われたら貯めずにはいられない性分だった。
なにかを始めるのはとてもしんどいが、遅いということはないはずだ。
自分にそう言い聞かせて浪費をやめ、月2万円ずつ貯金していくようにした。
最初の貯金額6万円の頃はきつかった。こんなもん貯めても意味ねーや、2000万円なんて天文学的な数字、貯まるわけがない。馬鹿らしい、ケーバやって負けて寿司でも食おうという誘惑に負けそうになった。
だがなんとかグっと堪えて月日を重ねると、6万円だった貯金は数十万円になっていた。俺はもう、その金に手をつけようとは塵ほども思わなくなっていた。この金が増えることはあっても減ることはあってはならないという、なかば強迫観念のようなモノにとらわれていた。
これを世間の人は貯金するというのだろう。
さて、ここで本題に戻る。
先述した通り、俺は人生の地図を紛失してしまっている。目標もなければ、行きつく先の目的地すらない。
2000万円貯めてどうする……?
そもそも、ほぼ毎日、やめようやめようと口にしつつもやめられない酒を飲んで夜更かしして、話し相手はもっぱらVチューバーな孤独死まっしぐらの道をひたむきに突き進んでいる俺が、ヨボヨボの爺さんになるまで生きられるのかも怪しい。
2000万円貯めなきゃいけないのは守るべき人がいる人たちであって、俺を指しているのではないんじゃないだろうか。
そう考えると何もかも馬鹿らしくなってくる。
書いていて気分が落ちてきた。
今すぐにでもオンボロアパートを飛び出して、失くしてしまった人生の地図の捜索に出かける必要があった。
けれどそれはたぶん、この世のどこを探してみても見つからないだろう。
だって失ったというより、俺が自分で書いて自分で破り捨てた地図だ。他の誰にも同じものは書けない。
だから古い地図に固執するのはやめて『新しい地図』を書こう。
心の中のキャンパスに色とりどりの絵の具を使って描く。
記念すべき最初の道程は最近、近所にオープンしたディスカウントストア。
その店で購入するのは豚こま肉と、値段が落ち着いてきた春キャベツ、それから缶チューハイと第三のビール。
豚肉とキャベツを煮て、ポン酢で食べる。一気にビールを流し込む。最高の晩酌って感じだ。
俺の『新しい地図』は、ここに完成を見た。