買い物をして電車に乗って帰る。
商品が入ったレジ袋を座席に座った状態で膝に抱えてくつろいでいる俺。
目を閉じ妄想する。
家に帰ったら今日買った食材で作る予定のビーフシチューについて考えているのだ。
頭の中では既に完璧なシチューが完成していた。美味しそうだ。
ごくりと唾を呑む。
すると唾液が気管に入り、急にむせた。
「んん、こほ……」
小さく咳払いをする。
瞬間、乗客の皆さんの視線が一斉に俺へと向けられた。
いろんな感染症が流行っているのでそうなるのも仕方がない。
だがここで「すんません、唾が変なとこに入っちゃったもんで……病気じゃないですよ……へへ……」と言い訳をするわけにもいかない。知らない人たちの前でそんなことしたら、それはただのやばいやつだ。
そんな状況で、よりにもよって俺は、盛大に咳き込みたい状態にあった。
咳払い程度では気管支に入った異物を除去できていなかったのだ。今すぐ「ゴホッ!ゴホゴホッ!」と声に出して思いっきり咳き込みたい衝動に駆られる。
だが、できない。
俺にそう思わせるだけの謎の圧力が車内に満ちていた。
それはおそらく感染症への恐怖からくるものだろう。現に車内にいる8割の人はマスクを着用していた。ちなみに俺はマスクをしていなかった。なので、なおさら咳なんてできない。
『次は〇〇駅です。The doors on the right side will open…』
車内アナウンスが流れる。俺が降車する駅まであと2駅だ。それまで我慢して、降りたら盛大に咳き込んでやろうと決め、無心で英語の部分のアナウンスを心の中で翻訳する。たぶんドアが右に開きますよ、という意味だろう。
などと考えていると……
「こほっ……」
急にきた。咳が。きっと、よく知りもしない英語のことを考えて油断していたせいだ。
それはさておき、コップに限界まで水をいれても表面張力というやつで溢れそうで溢れない現象がある。もうあと一滴でも水をいれたら零れるだろうって感じのやつだ。
その状態が、その時の俺だ。
だから溢れた。咳が。
「ごほっ!!ゴホゴホッ!!ゲホッ!!!」
本日のテーマ『あなたのもとへ』
俺のもとに注がれた視線の話。
1/15/2025, 11:33:33 AM