「誰か、助けて」
今にも消え入りそうなか細い声。この声が聞こえると、俺は必然的にヒーローというか、スーパーマンというか、まあ正義の味方になる。
今も、起きたばかりの頭を振って無理矢理目を覚まし、窓から飛び出した。寝癖やパジャマは変身してしまえば気付かれないからそのままだ。案の定、窓を飛び出した時点でスーパーヒーローのボディスーツへ変身していた。未だに仕組みがよくわかっていないため、不思議パワーはすごいとしか言いようがない。
屋根の上を渡って開けた公園へ降り立った。確かこの辺りから声が聞こえたはず。周囲を見回していると、泣きじゃくる子どもと子どもを小枝で突く大男がいた。……いや、どういう状況だよ。
とにかく、あの子どもが声の主だと思い、近づいた。
「失礼、呼びましたか?」
「あっ」
「えっどうしよう」
俺が声をかけると、子どもは泣き止み、大男は小枝を落とした。二人してキョトンとした表情を浮かべている。
あれ、間違えたか?
俺が首を傾げると、子どもは大笑いをし、大男は物腰低く頭を下げた。
「すみません! 息子がヒーローごっこにハマってまして、私が、その、悪役を」
「ああ! いや、そうでしたか。すみません、助けてと声が聞こえたので思わず」
「いえいえ、こちらが勘違いさせるようなことを」
「こちらこそ、親子水入らずのところへ駆けつけてしまいまして」
俺と大男が互いに頭を下げて謝罪を繰り返す姿が面白いのか、子どもはさらに声を大きくして笑っていた。お腹を抱えて地面に横たわり、のたうち回っている。
「パパも、おじさんも、変なの」
「おじっ」
「こら、昇! こちらの方は世界の平和を守っていらっしゃるスーパーヒーロー様なんだぞ!」
「スーパーヒーローを名乗るサギがハヤってるってテレビで言ってた」
「し、失礼だな君。詐欺じゃないよ俺は!」
子どものマセた発言に俺は全力で否定した。父親を名乗る大男がより一層速く頭を下げる。
「助けてください」
親子とやりとりしていると、また新たな声が聞こえた。小さく囁くような声に俺の背筋がピンと伸びた。この声は、どうやら俺にしか聞こえないらしい。
「すみません、そろそろ次がありまして」
「ああ、そうですよね! この度は本当にすみませんでした」
「いえ、無事でよかったです。では」
手を振る子どもに振り返し、俺は近くのコンビニの屋根へ大ジャンプした。背後から「おおっ」と歓声が上がったが、それどころじゃない。大きく一歩を踏み出して加速する。あっという間に先ほどとは違った景色が広がった。
この奇妙な親子との出会いがのちの大事件へ繋がるとは、この時は見当もつかなった。
『声が聞こえる』
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(続かない)
今宵の月は、その姿を消していた。分厚い雲に覆われていて、空は灰色がかっている。辺り一体は仄暗く、怪しい気配を纏っていた。
今日も来てくださらないのですね。
蚊帳の中から透けて見える夜空を見上げ、私はため息をついた。お慕いしている彼の方がいつ訪れるのか。今日も夜通しお待ちして差し上げなければならない。
いつからいらしてないのか。考えただけでも切なくて胸が張り裂けそうだったから目を逸らしていた。けれど、日を追うごとに彼の方への想いを募らせるばかりで苦しくてもどかしい。
きっとそれなりの月日は経っている。彼の方が最後に私の元へいらしてくださったのは、確か夏の夜。しとしと降り続いていた梅雨がようやく明け、屋敷の南西にある川の増水が落ち着いた頃を見計らってだった。
他の季節に比べてじっとりとまとわりつく空気で、なんだか会う気分にもなれなかったはずなのに、彼の方にお会いしただけで晴れない気持ちが吹き飛んでしまった。おかげさまでとても幸せで夢のような夜を過ごせたのだった。
その日以降、お姿も、お手紙も頂戴していない。こちらからいくつかお手紙をお送りしたけれど、お返事はいただけなかった。
お勤めお忙しいのだろうか。都を離れてどこか違う土地へ旅立たれてしまわれたのかしら。
もしかして、私に飽きられましたか。
この屋敷から出ない私にとって、彼の方を知り得る方法が何もないのだ。ただ、彼の方がまたここをお訪ねになることをお待ちするしかないのだ。
貴方と過ごした夜をいつも夢に見て、目が覚めては枕を濡らす毎日です。紅葉が色を移り変えるように、貴方の想いが変わってしまったのなら、私はこの先どう生きればよいのでしょう。
日が昇ってしまったことにひどく落ち込みながら筆を取った。書いたお手紙は使いの者へ渡した。きっとあのお手紙にも、お返事はいただけない。
他の生き方など、私は知らないのですよ。
『秋恋』
君はいつも大袈裟だ。
やれ寝坊しただ、遅刻しそうだとベッドから起き上がり、洗面所へ駆け込む。俺に対してなんで起こさなかったんだなんて喚いて。いやいや、俺は声も掛けたし肩を叩いて揺らしたと答えれば、起きるまでやらないと意味ないじゃん! とダイニングテーブルをバンッと思い切り叩いた。やめなさい、壊れるから。
「だって、だって今日」
「うん、俺の実家へ挨拶だったね」
「間に合う!?」
「うん、間に合う」
だからゆっくり準備しておいで、ご飯はコンビニでもドライブスルーでもサービスエリアでもどこでも君の好きなものを。
ニッコリと答えると、君はホッとしたのか肩を撫で下ろした。着替えてくる、と君が部屋へ戻ったタイミングで俺のスマホが鳴った。母からだ。
「おはよう、ちゃんと起きたよ」
「おはよう。ねえアンタたち何時ごろ着きそう?」
「ごめん、少々トラブってまだ家の周辺なんだ。今日はこっちの道も混んでるし、まだいつ着くか分からないかな」
「って言いながらアンタ寝坊したでしょ」
「ははは」
感の鋭い母に思わず笑ってしまった。まあ、寝坊したのは彼女なんだけど。
母のため息が耳に届いて、そういえばと言葉がつながった。
「お父さんが夕飯寿司にしようって言ってるけど、彼女ちゃん生魚大丈夫かしら?」
「うん、彼女はなんでも食べるよ」
「アレルギーを聞いてるんだけど」
「特に大トロが好きだ」
「それアンタの好物でしょ!」
本当に彼女も好きなのだ、大トロが。むしろ俺たちは大トロでできた縁で結ばれているくらいなんだけど。
「じゃあ大トロね、たくさん入れてもらうから」
「了解した」
「じゃあ運転気をつけてね」
「うん」
電話を切ると、バッチリ化粧をして着替えた彼女が目の前にいた。今日も可愛いな、と思いながらコーヒーを一口飲む。
「道が混んでるなんて、嘘ついていいの?」
「大丈夫、俺が寝坊したと思っているようだし。大事にしたくないんだ」
実家で寿司を頼むのはかなり大事になっているのだが、君には内緒だ。父がやたらと大事にしたいタイプだからほとほと困る。
彼女は困った表情を浮かべて、ダイニングテーブルを挟んで向かい側に座った。
「それで」
「うん?」
「その寝癖のまま行くの? 結婚の挨拶だよ?」
「あ、」
そういえば、起きてからずっとコーヒーを飲んでいて、自分の支度を一切していなかった。俺は席を立って流しにマグカップを置くと、洗面所へと駆け込んだ。背中越しに君の笑い声が聞こえる。
今度は俺が慌てて準備する羽目になった。
『大事にしたい』
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(おおごと)
好きな人とのデートの帰り道とか
友達との飲み会の解散時とか
作品の感動シーンに感激した瞬間とか
楽しくて愛おしくてたまらない時間と
辛く険しく厳しい現実とのギャップを
想像して涙が止まらない
『時間よ止まれ』
「君と一緒に来られてよかった」
そう言って彼は目線を外へと向けた。私も釣られて外を見る。
ローストビーフが美味しいと評判の、都心にあるホテルのレストランに連れられてきた。高層ビルが建ち並ぶ都会で癒しのスポットとして、最上階にある庭園とそれに面したフレンチレストランがよくテレビやSNSで紹介されている。
確かにその通りだった。
ローストビーフ狙いで訪れたレストランは、一面ガラス張りで外がよく見える。ライトアップされた庭園には季節の花が咲いていて、管理が行き届いているのが分かった。その庭園の先に夜景が広がっていた。
暗闇の中、キラキラと輝くビルの灯りと、控えめに輝く星空。全席窓に面していて、案内された時に思わず「わあ」と声を上げてしまったほどだ。すっかりローストビーフのことなんて忘れてしばらく夜景を満喫していた。ローストビーフに釣られたことを知っている彼は、私の変わり身の早さに終始苦笑いしていた。
ちなみに噂のローストビーフは本当に絶品だった。柔らかくて、ジューシーで。今まで食べてきたどのローストビーフよりも群を抜いていた。オープンからずっと客が絶えないわけである。
「どうしても君に見せたかったんだ」
コース料理のデザートまで食べ、食後に出されたコーヒーをちびちび飲んでいると、彼の手が伸びてきた。咄嗟にカップを持っていない左手を差し出し、彼の手を掴んだ。私に手を掴まれた彼は一瞬目を丸くして、笑った。
「察しがいいんだか悪いんだか」
「え?」
私がカップをソーサーに戻したタイミングで、私の左薬指にスルッと何かが通った。第一関節に若干引っかかりつつも、指の根本まで通ったソレ。私の手から彼の手が離れると、夜景のように輝くシルバーリングが見えた。私は勢いよく手を引いて、まじまじとシルバーリングを見た。ダイヤモンドがあしらわれたデザインは、先月彼に見せたSNSの写真とそっくりそのままだったのだ。
言葉が何も出てこなくて、無言でひたすらシルバーリングを見つめる私に、彼が笑って言った。
「そちらを婚約指輪にしてもよろしいですか?」
『夜景』