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7/28/2024, 6:58:00 AM

「--全てを許せ、と」

 テーブルの上にあるアイスコーヒーの氷がカランと音を立てた。頼んでから随分時間が経ってしまったから、グラスの表面には水滴が付いている。隣り合った水滴同士が繋がって、大きくなり、やがて滴り落ちるのを横目で見ていた。かろうじて氷が残っているから、まだそこまで温くないはず。
 それでも飲む隙が一切やってこないのは、先ほどから目の前で壮大に繰り広げられている演説のせいだ。

 やれ神様がこうおっしゃった。やれお告げ通りにしたら幸せになった。

 数年ぶりに会った友達の変わり果てた姿に、私は何も言葉が出なかった。パサついて広がった白髪混じりの髪、化粧気がないにも関わらず荒れ狂った土色の肌、黒く濁って光のない目、血色を失った唇。見た目に気を遣い、惜しみなく自己投資に費やしていた彼女からは想像できないような変貌を遂げていた。
 そしてカフェに入ってから永遠に聞かされている神様の話。
 彼女が信仰する神様が、どれだけ凄いのか。どれだけ偉業を成し遂げた立派なお方なのか。
 身振り手振りを使って大袈裟に話す彼女の手は、細く青白い血管が浮き出ていてシミだらけだ。手だけ見たら、実年齢より十歳以上、上に見られてしまうと思う。

「私は神様のその言葉があったから、コロナ禍で失業してもまた再スタートができたの。『全てを許せ』だなんて、今まで生きてきた中で一度も考えたことなかった。会社も、職場の人も。それだけじゃなくて、今まで私に意地悪してきた人たち全てを許すだなんて。
 最初はもちろん抵抗したのよ。でもね、お告げの通り全てを許したら何故か気持ちが楽になったの。今までの私は一体何だったんだろうって。そこから幸せがいっぱい舞い込んできたの!
 今お付き合いしている人も神様が引き合わせてくれてね、すぐ意気投合しちゃったの。それでね、この間ついにプロポーズされたの!
 嬉しくてたまらなくて、彼と幸せになろうって決心したら、何と私のお腹に赤ちゃんがいることがわかったの! 神様のお告げでね、妊娠しにくいって言われていたんだけどね、良縁と結ばれたから奇跡が起きたんだって!
 こんなに幸せなことが次々やってくるなんて。ね、凄いでしょう!?」

 興奮気味の彼女がようやくルイボスティーに手をつけた。彼女はホットで頼んだはずだから、もうとっくのとうに冷めているだろうけど。まるで熱々を飲むかのようにチビチビと口につけていた。
 私は今だと思って豪快にアイスコーヒーをストローで吸った。混ぜたはずのガムシロップがそこに溜まっていて甘い。勢いをつけすぎたのか、グラスの半分くらいを一気に飲んでいた。
 彼女の目が、私に向いた。

「あ、私別に弥生に信仰してほしいとか、勧誘目的で話してないからね」
「えっそうだったの!?」

 私が思わず大きく反応すると、彼女は可笑しそうに笑った。

「うん、妊娠と結婚の報告するのに、弥生にはちゃんと正直に話したいから話しちゃったけど。ごめんね、変な話聞かせて」
「あ、いや。変という自覚はあるんだ」
「だって全国民のほとんどがクリスマスを祝って、大晦日に除夜の鐘を聞いて、神社に初詣しに行くのにさ、私やらせてもらえなかったもん。宗教上他の神様を崇めていることになるからダメって。クリスマスがキリスト教、除夜の鐘が仏教、神社に初詣が神道なんだって。いや日本国民ほぼ全員が年中行事か何かだと思ってるでしょって突っ込んだんだけど、うちはうち、よそはそよだってさ」

 こんなの変に決まってんじゃん、と彼女は不機嫌そうにムスッとした。
 確かに学生時代の彼女は、同じグループの子たちでやるクリスマスパーティーには参加しなかった。除夜の鐘を聞きながら初詣しようと夜に誘っても断られた。厳格なお家柄なのかも、と他の子たちと話していたのも記憶に新しい。当時は宗教のしの字すら話題に出なかったのだ。
 だから再会して、突然の宗教談義だったためてっきり最近入教したのだと思っていた。まさか家族がそもそも信者で、その家庭環境で育ってきたとは。

 さまざまな宗教団体が世界に存在する中で、信仰する人々はかなり熱心な印象がある。信者を増やすために無茶苦茶な方法を取るという噂だって耳にしたことがある。熱心で時に盲目的、というのが私の中の認識だった。
 だから彼女のような、自分と他人と神様をしっかり区別して無理に交わらせない人の方が珍しい部類の人なんだろうと改めて思った。

「今、ちゃんと幸せ?」

 私の口から溢れた言葉に、彼女は一瞬キョトンとした。そしてすぐ破顔した。

「うん、幸せ!」

 その笑顔だけは、私が知っている変わらない彼女だった。



『神様が舞い降りてきて、こう言った。』

7/26/2024, 10:53:47 PM


「情けは人の為ならず」
 他人に情けを掛けていれば、巡り巡って自分へ良いことが返ってくる。

 誰かのために行動すると、いつも空回りする。
 空回って転んでばら撒いて怪我をして、
 心も体も傷だらけになりながら動いている。
 自分は生涯このまま空回りし続けて終えるのだと悟ってしまった。

 他人に掛けた情けって、
 死後の世界でも自分に返ってきますか?


『誰かのためになるならば』

7/25/2024, 4:13:13 PM


「このストーリー何?」

 バイト帰りに琢也の部屋を訪れた。コンビニでバイトしていると稀に厄介な客に当たる日があって、今日がまさにそうだった。心身共に疲弊した私は琢也に会いたくなって急遽連絡したのだ。
 二つ返事でオーケーしてくれた琢也は、家に到着するまでの間ずっと電話を繋いでくれていた。暗い道が少しでも怖くないように、という琢也の心遣いだ。私に向けられたその優しさが嬉しくて仕方ない。

 話を切り出されたのはご飯を食べて、お風呂に入って、髪を乾かし合った後だった。ソファに隣り合って座り、スマホを弄りながら寛いでいたら、琢也が突然スマホをこちらに向けてきたのだ。表示されていたのはSNSの投稿した画像で、同じゼミの同期と写ったものだった。

「水野君と撮らされただけだけど」
「はぁ? 距離近くない?」

 正直に答えると、琢也は苦虫を噛んだように顔を歪ませた。声は明らかに不機嫌だった。

「そうかな? これでも肩組まれそうになったから必死に避けたんだけど」
「肩ァ?」

 あっ余計なこと言ってしまった。
 私はのらりくらりと、かわそうとして火に油を注いでしまった。琢也眉間に皺を寄せ、鋭い目つきで私を見下ろしてきた。

「美菜子、お前隙ありすぎ」
「うっ、ごめんなさい」
「謝られてもさ、別に何の解決にもなんないの。肩組みを避けるのは当たり前だし。それでもこれは顔の距離が近いだろ」
「えっ、そ、んなことないと……」

 私は狼狽えながら琢也の手の中にあるスマホを覗いた。
 同じゼミに所属している水野君はゼミ長だけど、連絡事項を教えてくれるくらいであまり話したことがない。
 この写真も卒業アルバムの話が出て、ゼミのページに載せる写真が欲しいからとアルバム委員の子に無理矢理ツーショットを撮らされたのだ。仲良しアピールがほしいのか「肩組んで」とお願いされたところを私が断固拒否して隣に並ぶだけにしたのだが。よく見たら棒立ちの私の横に並ぶ水野君は、私の方に体を傾けていた。くっついてはいないけど、確かに近いと思われるかもしれない距離だった。
 そもそも、琢也と一緒にいるようになってから、異性とは話さなくなっている。琢也がいい顔をしないどころか、こうやってヤキモチをやくからだ。

「本当にごめん、気が付かなかった」
「ていうかこの写真上げたやつも誰? 何がしたいの?」
「えーっと、アカウント名的に多分アルバム委員の子かな。ゼミの仲良しアピールでもしたかったのかな」
「勝手に他人の彼女が勘違いされそうな写真を上げてまで?」
「今度会ったらちゃんと言う」

 マジほんとありえねぇ。
 琢也はそう吐き捨てて自分の頭をガシガシと掻きむしった。本当にイライラして仕方ない時の仕草だ。私は琢也の膝にそっと手を置いて、俯く彼の顔を下から覗き込んだ。

「琢也、本当にごめんね。私、ちゃんと気をつけるから」
「あぁ」
「男子とは必要なこと以外話してない。この水野君も滅多に話さない。二人きりにもならないようにしてるし、彼氏いることも周りに言ってるよ」
「うん」
「メッセージの返信も、SNSのコメントも。通知受けたらすぐにやる約束、まだ守れてるでしょ? マメに何しているか知りたいって言ってくれたから、行動する前に送るようにしてるよ」
「うん」
「まだまだ足りないところだらけの私だけど。お願い、信じて?」

 両手を琢也の膝に乗せたまま、体重を少し乗せる。下から覗き込んで、琢也の目と私の目が合った。そのまま数秒待っていると、琢也の手が頭から降りてきて、私の腰を掴んだ。
 フワッと束の間の浮遊感の後、私は琢也の膝の上で向き合うように座らされた。落とさないようにか、今度は琢也の手が私の背中に回ってグッと引き寄せられた。彼のぬくもりに包まれて、安心してしまった。

「ごめん、信じきれなくて」
「ううん、不安にさせた私が悪い」
「美菜子は悪くない。俺が弱いのがいけないんだから」

 声のトーンが下がり、琢也が弱々しく呟いた。本人から直接聞いてないけど、噂で元カノが浮気性だったことを耳にしたことがある。きっと琢也は無意識に浮気されるのではないかと不安がっているのだ。
 琢也が私の肩に顔を埋めて、ぐりぐりと押しつけてくる。私は頬に当たる髪の毛がくすぐったくて、子供っぽい仕草に思わず笑みが溢れた。

「そんなことないよ。私、察しが悪いから琢也にばかり無理させてるよね? 本当にごめん。でも全部言ってくれるから、私ちゃんと気をつけようって思えるの。だからもっと言ってほしい」
「うん、ありがとう美菜子。愛してる」
「私も」

 私は肩に乗っかっている琢也の頭を撫でた。髪の毛を整えるように手を動かしていると、急に琢也が顔を上げた。びっくりして目を見開くと、次の瞬間には唇が重なっていた。
 最初は軽く、チュッとリップ音を鳴らしながら合わさっていたが、どんどん重なる時間が長くなっていく。力なく薄く口を開けると、今度は深い口付けに変わった。お互いの舌を絡ませて、彼の首の後ろに手を回してより顔を近づける。気持ちよくてたまらなくなって、もっと求めてしまう。
 次に唇が離れたのは、お互いの息が保てなくなったタイミングで、私は琢也から離した手を自分の胸に当てて呼吸を整えた。すると、腰を下ろしているところに少し違和感を感じた。

「あの、さ」
「あー、うん、そうだね」

 琢也は自分の腰を私に擦り寄せた。硬く主張する存在が何なのか、疑いから確信に変わって思わず顔が熱くなった。私の様子を揶揄って「真っ赤」と琢也は笑った。

「ね、明日休みだからいいでしょ?」
「えー。もう、しょうがないな」

 私が仕方なく返事をすると、身体がまた浮いた。ベッドはすぐそこだからとても短い時間だけど、毎回私を持ち上げて運んでくれる琢也にときめいている。
 そうしてベッドに雪崩れ込み、瞼を閉じて降ってくる甘い痺れに酔いしれた。


 もっと私を縛り付けて。
 私だけを見つめて、考えて、愛してほしい。



『鳥かご』

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150投稿目です。
(どこかで1日に2個くっつけて投稿しているのでこの作品は151作品目になりますが、キリ良くしたかった事情のもと投稿回数を今回だけ強調してます)
いつも本当にありがとうございます。
139作品目の時には言い忘れてすみませんでした。
これからもよろしくお願いします。

7/25/2024, 7:13:38 AM

 時に味方で時に敵
 常に公平であり対等の位置に立つ

 老若男女問わずに交流する
 呼吸か価値観か別の何かか
 一つが合えばそれでいい

 血の繋がりも育んだ愛情も一切ない
 だけど相手を思う気持ちは人一倍

 そんな心強い赤の他人と結びつく唯一無二の感情


『友情』

7/24/2024, 3:25:49 AM



 抽象画が好きだ。
 タイトルや解説で絵の細部までこだわって説明している風景画や人物画も好きだけど、特別何の説明もない、タイトルもついてない抽象画が好きだ。観た人が思うがままに解釈して感想を言い合える、そんな雰囲気があるから。
 でも大半の人は何を描いているか分からないと言って、抽象画を敬遠する。そこが面白いところなのにと思って勧めても、皆大抵首を振る。私には芸術がわからない、と。

 だからだろうか、僕の絵がバズらないのは。

 親に頼み込んで、奨学金も借りて、絵の勉強のために美大へ入った。似たような境遇の人とつるみながら絵を描きまくる日々を過ごした。就活の時期で周りがどんどん企業から内定をもらう中、どうしても絵の仕事をしたかった僕は、思い切ってインフルエンサーの世界へ飛び込んだ。
 今はなんでも自分発信が有利に働く時代だと感じた。だから僕も自分から自分の絵を公開していった。それでもなかなか高評価は稼げないし、フォロワーも増えない。もっとバズるような絵を描かなきゃと、実家の自分の部屋に引きこもりとにかく絵を描いた。
 他のものが視界に入って絵の妨げにならないように、部屋は暗くして間接照明でキャンバスだけを照らした。そのうち学校へ行く時間も、風呂に入る時間も、スマホを開く時間も、食べる時間も、トイレに行く時間も、寝る時間も。絵を描く行為以外の時間がもったいなくて煩わしく感じるようになった。どんどん自分を追い込んだ。

 一体どのくらいの時間を絵に注ぎ込んで過ごしたのだろう。僕の筆が止まったのは、たった一本の電話だった。着信音が耳に入ってきて、集中力が切れたのだ。
 キャンバスへ向けていた筆を下ろすと、腕はだらんとしてまるで力が入らなかった。筆が指先から滑り落ちた。カシャンと床に落ちた筆を拾い上げる力が出ない。筆を持った手を見ると手首から指先にかけて微かに痺れていて、腱鞘炎になっているようだった。
 反対の手に持っていたパレットを無造作に椅子へ置いた。周りは絵の具と筆、キャンバスだらけで足の踏み場がない。掻き分けてベッドのそばにあるスマホを取り上げた。充電器に差しっぱなしだったため、スマホと繋がっていたコードを取り外す。まだ電話は鳴り続けている。表示を見ると大学の同期のケンジからだった。

「はい」

 僕は邪魔された八つ当たりのように、イライラしながら電話に出た。

「もしもし、トシヤ? 久しぶり」

 ケンジは僕の苛立ちを気にした様子もなく、あっけらかんとした声で話し出した。

「お前全然学校来ないんだもん。大丈夫? 単位足りてる?」
「うっせぇな、余計なお世話だよ」

 元々卒業単位ギリギリしか講義を入れていなかったため、通学してない今、留年しそうとは頭の片隅で思った。

「で、何。なんか用事あったんだろ」
「えっ、もっと世間話楽しもうぜ」
「僕今忙しいから」
「いやマジ何やってんの? やばいバイトとか変な宗教とかハマってないよな? 大丈夫だよな?」
「大丈夫だから! 要件!」

 僕が大きな声を出すと、スピーカーからため息が聞こえた。それがさらにイライラしてしまい、思わず舌打ちが漏れた。電話に入ってしまったか、気にする余裕は僕になかった。

「俺、今度個展やるんだよ」

 スマホから聞こえた声に、僕は言葉を失った。何も返事ができない僕に構わず、ケンジは珍しく真面目な声で話を続けた。

「俺さ、入学してからずっとSNSでショート動画出しててさ。絵を描いているところを二分くらいの動画にして投稿してたんだ。三年続けてフォロワーも増えたし、バズる動画も出てきたら企業側から声が掛かってさ」

 夢だったんだよね、個展開くの。

 そんな夢、全世界のクリエイター共通だろうが。
 声には出ない悪態を心の中でついた。

「トシヤには観に来てほしいんだ。ほら、入学してからトシヤには世話になりっぱなしだろう? だから招待ってことで」

 それ以降のケンジの声は僕の耳に入ってこなかった。僕自身、自分がどんな返事をしたのかすら思い出せない。いつの間にかケンジとの通話は終わっていて、トーク欄にはケンジの個展の詳細が送られてきていた。でもそれに何か返す気にならなかった。

 ケンジは水彩の分野で、僕とは畑違いだった。にも関わらず、たまたま被ったスケッチの講義でたまたま隣に座っていた僕に「影の濃淡ってむずくね?」と突然話しかけてきたのがケンジだった。話すようになってからはどうやって美大に入ったんだ、と思うくらい美術の基本みたいな質問を繰り返していた。僕がうんざりしながらも、何だかんだ答えているうちにつるむようになったのだが。
 そういえばケンジにSNSで公開するのも良いと勧めたのは僕だった。僕は写真しか投稿してないけど、ケンジは最初から動画を撮っていた。完成系だけを観て欲しい僕と違い、ケンジは描いている工程から視聴者に楽しんでほしいと言っていた。実際水彩絵の具を手に取らない油絵専門の僕には、描き方や色の重ね方の違いが面白く、投稿を楽しみにしていた。最初は僕を含む周りからしか高評価を押してもらえなかったのに。
 久々にケンジのアカウントを見た。ショート動画を人気順にすると、一番左上の動画が百万回再生を記録していた。スクロールして他の動画を見ても、軒並み十万から二十万回再生されている。
 ケンジの絵は水彩の風景画が中心で、絵の中に描かれる人物は誰もが生き生きとしていた。僕の描く抽象画とは違って、何を描いたのか分かりやすくて人ウケのいいナチュラルな色彩で描かれていた。

 海外旅行の際の街中。
 都心の賑わうオープンカフェ。
 全面ガラス張りのビルに反射する空。
 防波堤に腰を下ろしてアイスを食べる高校生。
 夕暮れ時に走って帰る子どもたちの後ろ姿。
 酒を酌み交わす客で大賑わいの大衆居酒屋。

 どれもありふれた風景なのに、ケンジの絵は人を惹きつけた。魅了されて、スクロールする手が止まらない。それもだんだん嫌になってきて、スマホを投げ出した。

「あっ」

 投げてしまったスマホは、壁に立てかけて乾燥中のキャンバスのど真ん中に当たった。昨日仕上げたばかりの絵だった。慌ててキャンバスに駆け寄って傷がないか確認したら、スマホが当たった真ん中に大きな凹みができてしまった。その凹みを見て、俺は何もかもがどうでも良くなった。

 まだSNS用の写真を撮ってないのに。

 SNSで高評価を集めて、フォロワーが増えればケンジみたいに個展ができるかもしれない。事実、ついさっきまではその夢を目指していたはずだ。でも今考えると、知らない画家の人気のない抽象画なんて観たい人はきっといない。
 だから、綺麗に写真を投稿する必要がない。
 僕は絵の全体と凹んだ所を乱雑に写真を撮って、明度だけ明るくして投稿した。これ以降、しばらくはSNSから離れようと思って通知を切った。

 今からでも美大生の就活って間に合うんだろうか。

 僕は絵を描いてご飯を食べていくことを諦めて、一般企業へ就職することをたった今決めた。絵から離れると、脳みそがぐるぐる活発に動いていることがわかる。
 まずは部屋の掃除、次に家族へ謝罪。明日は大学へ行って単位がどうなるか相談。段取りを決めながら部屋の電気をつけて、カーテンを開けた。窓から降り注ぐ日差しが眩しくて、目をギュッと閉じた。

【誤ってスマホをキャンバスにぶつけてしまい穴が開いたためしばらくの間更新停滞します。今までありがとうございました。】

 数少ないフォロワーへ向けて発信した短い文章と二枚の写真を添付した投稿は、瞬く間に拡散されて多くの人の目に留まったらしい。通知が鳴り止まない現象をリアルタイムで体験することなく、僕は黙々とキャンバスをビニール紐で束ねていた。


『花咲いて』

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