「--全てを許せ、と」
テーブルの上にあるアイスコーヒーの氷がカランと音を立てた。頼んでから随分時間が経ってしまったから、グラスの表面には水滴が付いている。隣り合った水滴同士が繋がって、大きくなり、やがて滴り落ちるのを横目で見ていた。かろうじて氷が残っているから、まだそこまで温くないはず。
それでも飲む隙が一切やってこないのは、先ほどから目の前で壮大に繰り広げられている演説のせいだ。
やれ神様がこうおっしゃった。やれお告げ通りにしたら幸せになった。
数年ぶりに会った友達の変わり果てた姿に、私は何も言葉が出なかった。パサついて広がった白髪混じりの髪、化粧気がないにも関わらず荒れ狂った土色の肌、黒く濁って光のない目、血色を失った唇。見た目に気を遣い、惜しみなく自己投資に費やしていた彼女からは想像できないような変貌を遂げていた。
そしてカフェに入ってから永遠に聞かされている神様の話。
彼女が信仰する神様が、どれだけ凄いのか。どれだけ偉業を成し遂げた立派なお方なのか。
身振り手振りを使って大袈裟に話す彼女の手は、細く青白い血管が浮き出ていてシミだらけだ。手だけ見たら、実年齢より十歳以上、上に見られてしまうと思う。
「私は神様のその言葉があったから、コロナ禍で失業してもまた再スタートができたの。『全てを許せ』だなんて、今まで生きてきた中で一度も考えたことなかった。会社も、職場の人も。それだけじゃなくて、今まで私に意地悪してきた人たち全てを許すだなんて。
最初はもちろん抵抗したのよ。でもね、お告げの通り全てを許したら何故か気持ちが楽になったの。今までの私は一体何だったんだろうって。そこから幸せがいっぱい舞い込んできたの!
今お付き合いしている人も神様が引き合わせてくれてね、すぐ意気投合しちゃったの。それでね、この間ついにプロポーズされたの!
嬉しくてたまらなくて、彼と幸せになろうって決心したら、何と私のお腹に赤ちゃんがいることがわかったの! 神様のお告げでね、妊娠しにくいって言われていたんだけどね、良縁と結ばれたから奇跡が起きたんだって!
こんなに幸せなことが次々やってくるなんて。ね、凄いでしょう!?」
興奮気味の彼女がようやくルイボスティーに手をつけた。彼女はホットで頼んだはずだから、もうとっくのとうに冷めているだろうけど。まるで熱々を飲むかのようにチビチビと口につけていた。
私は今だと思って豪快にアイスコーヒーをストローで吸った。混ぜたはずのガムシロップがそこに溜まっていて甘い。勢いをつけすぎたのか、グラスの半分くらいを一気に飲んでいた。
彼女の目が、私に向いた。
「あ、私別に弥生に信仰してほしいとか、勧誘目的で話してないからね」
「えっそうだったの!?」
私が思わず大きく反応すると、彼女は可笑しそうに笑った。
「うん、妊娠と結婚の報告するのに、弥生にはちゃんと正直に話したいから話しちゃったけど。ごめんね、変な話聞かせて」
「あ、いや。変という自覚はあるんだ」
「だって全国民のほとんどがクリスマスを祝って、大晦日に除夜の鐘を聞いて、神社に初詣しに行くのにさ、私やらせてもらえなかったもん。宗教上他の神様を崇めていることになるからダメって。クリスマスがキリスト教、除夜の鐘が仏教、神社に初詣が神道なんだって。いや日本国民ほぼ全員が年中行事か何かだと思ってるでしょって突っ込んだんだけど、うちはうち、よそはそよだってさ」
こんなの変に決まってんじゃん、と彼女は不機嫌そうにムスッとした。
確かに学生時代の彼女は、同じグループの子たちでやるクリスマスパーティーには参加しなかった。除夜の鐘を聞きながら初詣しようと夜に誘っても断られた。厳格なお家柄なのかも、と他の子たちと話していたのも記憶に新しい。当時は宗教のしの字すら話題に出なかったのだ。
だから再会して、突然の宗教談義だったためてっきり最近入教したのだと思っていた。まさか家族がそもそも信者で、その家庭環境で育ってきたとは。
さまざまな宗教団体が世界に存在する中で、信仰する人々はかなり熱心な印象がある。信者を増やすために無茶苦茶な方法を取るという噂だって耳にしたことがある。熱心で時に盲目的、というのが私の中の認識だった。
だから彼女のような、自分と他人と神様をしっかり区別して無理に交わらせない人の方が珍しい部類の人なんだろうと改めて思った。
「今、ちゃんと幸せ?」
私の口から溢れた言葉に、彼女は一瞬キョトンとした。そしてすぐ破顔した。
「うん、幸せ!」
その笑顔だけは、私が知っている変わらない彼女だった。
『神様が舞い降りてきて、こう言った。』
7/28/2024, 6:58:00 AM