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 抽象画が好きだ。
 タイトルや解説で絵の細部までこだわって説明している風景画や人物画も好きだけど、特別何の説明もない、タイトルもついてない抽象画が好きだ。観た人が思うがままに解釈して感想を言い合える、そんな雰囲気があるから。
 でも大半の人は何を描いているか分からないと言って、抽象画を敬遠する。そこが面白いところなのにと思って勧めても、皆大抵首を振る。私には芸術がわからない、と。

 だからだろうか、僕の絵がバズらないのは。

 親に頼み込んで、奨学金も借りて、絵の勉強のために美大へ入った。似たような境遇の人とつるみながら絵を描きまくる日々を過ごした。就活の時期で周りがどんどん企業から内定をもらう中、どうしても絵の仕事をしたかった僕は、思い切ってインフルエンサーの世界へ飛び込んだ。
 今はなんでも自分発信が有利に働く時代だと感じた。だから僕も自分から自分の絵を公開していった。それでもなかなか高評価は稼げないし、フォロワーも増えない。もっとバズるような絵を描かなきゃと、実家の自分の部屋に引きこもりとにかく絵を描いた。
 他のものが視界に入って絵の妨げにならないように、部屋は暗くして間接照明でキャンバスだけを照らした。そのうち学校へ行く時間も、風呂に入る時間も、スマホを開く時間も、食べる時間も、トイレに行く時間も、寝る時間も。絵を描く行為以外の時間がもったいなくて煩わしく感じるようになった。どんどん自分を追い込んだ。

 一体どのくらいの時間を絵に注ぎ込んで過ごしたのだろう。僕の筆が止まったのは、たった一本の電話だった。着信音が耳に入ってきて、集中力が切れたのだ。
 キャンバスへ向けていた筆を下ろすと、腕はだらんとしてまるで力が入らなかった。筆が指先から滑り落ちた。カシャンと床に落ちた筆を拾い上げる力が出ない。筆を持った手を見ると手首から指先にかけて微かに痺れていて、腱鞘炎になっているようだった。
 反対の手に持っていたパレットを無造作に椅子へ置いた。周りは絵の具と筆、キャンバスだらけで足の踏み場がない。掻き分けてベッドのそばにあるスマホを取り上げた。充電器に差しっぱなしだったため、スマホと繋がっていたコードを取り外す。まだ電話は鳴り続けている。表示を見ると大学の同期のケンジからだった。

「はい」

 僕は邪魔された八つ当たりのように、イライラしながら電話に出た。

「もしもし、トシヤ? 久しぶり」

 ケンジは僕の苛立ちを気にした様子もなく、あっけらかんとした声で話し出した。

「お前全然学校来ないんだもん。大丈夫? 単位足りてる?」
「うっせぇな、余計なお世話だよ」

 元々卒業単位ギリギリしか講義を入れていなかったため、通学してない今、留年しそうとは頭の片隅で思った。

「で、何。なんか用事あったんだろ」
「えっ、もっと世間話楽しもうぜ」
「僕今忙しいから」
「いやマジ何やってんの? やばいバイトとか変な宗教とかハマってないよな? 大丈夫だよな?」
「大丈夫だから! 要件!」

 僕が大きな声を出すと、スピーカーからため息が聞こえた。それがさらにイライラしてしまい、思わず舌打ちが漏れた。電話に入ってしまったか、気にする余裕は僕になかった。

「俺、今度個展やるんだよ」

 スマホから聞こえた声に、僕は言葉を失った。何も返事ができない僕に構わず、ケンジは珍しく真面目な声で話を続けた。

「俺さ、入学してからずっとSNSでショート動画出しててさ。絵を描いているところを二分くらいの動画にして投稿してたんだ。三年続けてフォロワーも増えたし、バズる動画も出てきたら企業側から声が掛かってさ」

 夢だったんだよね、個展開くの。

 そんな夢、全世界のクリエイター共通だろうが。
 声には出ない悪態を心の中でついた。

「トシヤには観に来てほしいんだ。ほら、入学してからトシヤには世話になりっぱなしだろう? だから招待ってことで」

 それ以降のケンジの声は僕の耳に入ってこなかった。僕自身、自分がどんな返事をしたのかすら思い出せない。いつの間にかケンジとの通話は終わっていて、トーク欄にはケンジの個展の詳細が送られてきていた。でもそれに何か返す気にならなかった。

 ケンジは水彩の分野で、僕とは畑違いだった。にも関わらず、たまたま被ったスケッチの講義でたまたま隣に座っていた僕に「影の濃淡ってむずくね?」と突然話しかけてきたのがケンジだった。話すようになってからはどうやって美大に入ったんだ、と思うくらい美術の基本みたいな質問を繰り返していた。僕がうんざりしながらも、何だかんだ答えているうちにつるむようになったのだが。
 そういえばケンジにSNSで公開するのも良いと勧めたのは僕だった。僕は写真しか投稿してないけど、ケンジは最初から動画を撮っていた。完成系だけを観て欲しい僕と違い、ケンジは描いている工程から視聴者に楽しんでほしいと言っていた。実際水彩絵の具を手に取らない油絵専門の僕には、描き方や色の重ね方の違いが面白く、投稿を楽しみにしていた。最初は僕を含む周りからしか高評価を押してもらえなかったのに。
 久々にケンジのアカウントを見た。ショート動画を人気順にすると、一番左上の動画が百万回再生を記録していた。スクロールして他の動画を見ても、軒並み十万から二十万回再生されている。
 ケンジの絵は水彩の風景画が中心で、絵の中に描かれる人物は誰もが生き生きとしていた。僕の描く抽象画とは違って、何を描いたのか分かりやすくて人ウケのいいナチュラルな色彩で描かれていた。

 海外旅行の際の街中。
 都心の賑わうオープンカフェ。
 全面ガラス張りのビルに反射する空。
 防波堤に腰を下ろしてアイスを食べる高校生。
 夕暮れ時に走って帰る子どもたちの後ろ姿。
 酒を酌み交わす客で大賑わいの大衆居酒屋。

 どれもありふれた風景なのに、ケンジの絵は人を惹きつけた。魅了されて、スクロールする手が止まらない。それもだんだん嫌になってきて、スマホを投げ出した。

「あっ」

 投げてしまったスマホは、壁に立てかけて乾燥中のキャンバスのど真ん中に当たった。昨日仕上げたばかりの絵だった。慌ててキャンバスに駆け寄って傷がないか確認したら、スマホが当たった真ん中に大きな凹みができてしまった。その凹みを見て、俺は何もかもがどうでも良くなった。

 まだSNS用の写真を撮ってないのに。

 SNSで高評価を集めて、フォロワーが増えればケンジみたいに個展ができるかもしれない。事実、ついさっきまではその夢を目指していたはずだ。でも今考えると、知らない画家の人気のない抽象画なんて観たい人はきっといない。
 だから、綺麗に写真を投稿する必要がない。
 僕は絵の全体と凹んだ所を乱雑に写真を撮って、明度だけ明るくして投稿した。これ以降、しばらくはSNSから離れようと思って通知を切った。

 今からでも美大生の就活って間に合うんだろうか。

 僕は絵を描いてご飯を食べていくことを諦めて、一般企業へ就職することをたった今決めた。絵から離れると、脳みそがぐるぐる活発に動いていることがわかる。
 まずは部屋の掃除、次に家族へ謝罪。明日は大学へ行って単位がどうなるか相談。段取りを決めながら部屋の電気をつけて、カーテンを開けた。窓から降り注ぐ日差しが眩しくて、目をギュッと閉じた。

【誤ってスマホをキャンバスにぶつけてしまい穴が開いたためしばらくの間更新停滞します。今までありがとうございました。】

 数少ないフォロワーへ向けて発信した短い文章と二枚の写真を添付した投稿は、瞬く間に拡散されて多くの人の目に留まったらしい。通知が鳴り止まない現象をリアルタイムで体験することなく、僕は黙々とキャンバスをビニール紐で束ねていた。


『花咲いて』

7/24/2024, 3:25:49 AM