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4/7/2024, 11:01:44 PM

 終業時間まであと三十分。順調に業務をこなし、残業なく定時で上がれると思っていた矢先のこと。
 取引先との商談内容にとんでもないミスが発覚した。
 担当者は上司に対してひたすら謝り、上司は担当者を引き連れて上長へ報告をし、上長が怒りを通り越して立ちくらみに見舞われ。部署内が騒然とした。
 気を取り直した上長の怒号もとい指示のもと、出勤していた人全員で修正作業にあたった。もちろん、残業代はしっかりもらえるよう、社内PCは落とさないし、タイムカードも押さない。修正作業は、終電ギリギリまで続いた。

   *

 なんとか走って終電に乗り込めた。最寄り駅で降りてコンビニでお弁当を買い、家に着いて。
 それからの記憶が曖昧だ。
 私は今、目覚めたら西陽の差し込む窓を見て眩しいと感じた。目がチカチカする中、何度も瞬きを繰り返して、ようやく違和感に気がついた。

 カーテンは?

 閉めた覚えがない。その記憶は確かなようで、窓枠の隅に括り付けられている。かろうじて薄いレースのカーテンがかかっていたが、強い西陽の前には無いも同然である。
 そこではた、とまた疑問を持つ。

 西陽?

 一人暮らししているこのアパートの部屋は南西向きである。朝の時間帯は日陰になり肌寒いのだが、正午を過ぎたあたりからぐっと室温が上昇する。カーテン無しのこの部屋は、夏になると灼熱地獄と化するのだ。
 そんな熱くてたまらない西陽が降りそそぐ時間帯とは、午後である。よく外を見ると空は白けてきて、太陽は茜色に染まっている。かなり日が傾いてきた証拠だ。私はようやく体を起こして、あまりの関節の痛みに絶えられず、呻き声を上げながらまた伏せた。

 昨夜の私はベッドにたどり着く前に気絶したらしい。フローリングの上に敷かれたラグの上で、うつ伏せの状態だった。いつまでもこの体勢ではいられないので、なんとか体を起こす。凝り固まった筋肉がほぐれるように、と願望まじりに腕を頭上で伸ばしたら体と私から悲鳴が上がった。とんでもない痛みだった。
 ふと見下ろすと、昨日着ていた上下スーツのままだった。ジャケットはくたびれていて、ブラウスとスカートは不自然なシワが寄ってしまった。スーツは替えがあるから明日休みの日にクリーニングへ出せばいいし、ブラウスは洗えば元通り整うだろう。
 私は何とか立ち上がってジャケットを脱ぎ、ハンガーに掛けた。ラックにかけるときに、やっと足元が変な感じだと思った。見下ろすと、左足だけパンプスを履いていたままだった。

 一瞬動きを止めてしまったが、とりあえずパンプスを脱ぐことはできた。そして、パンプスを手にキッチンへ入って、冷蔵庫の扉に手をかけた。

 あれ、その前に玄関へ行くべきでは?

 その考えに頭が追いついたときには、すでに冷蔵庫を開けていた。中には、昨日コンビニで買ったお弁当と、もう片方のパンプスが入っていた。
 状況が読み込めず、一度扉を閉じた。私、まだ寝ぼけているのかもしれない。頭を振って再度何回か瞬きをし、深呼吸をした。先ほどより少し頭の中がクリアになった気がする。

 気を取り直して、私はもう一度冷蔵庫を開けた。

 中には、コンビニ弁当と、パンプスが入っていた。

 やはり何も間違っていなかった。
 私は膝から崩れ落ちそうになりながら何とか持ち堪え、パンプスをそっと取り出した。これは、冷蔵庫の掃除をするべきだろう。土足を冷蔵していたところにそのまま食材入れるのは、想像しただけで気持ち悪い。今日はもう遅いから、明日の休みにやろう。クリーニングの次の項目に冷蔵庫の掃除が追加された。

 左右揃ったパンプスを手に、玄関へ向かう。途中廊下でカバンとその中身がぶちまけられていたので、拾いながら進む。財布、キーケース、パスケース、ポーチ、手帳、水筒、折り畳み傘、ハンカチ、ティッシュ、厄除けのお守り。手荷物いっぱいになりながら着いた玄関には、特に何も違和感がなかった。無事な玄関にホッとして、パンプスをしまおうとシューズボックスを開けた。

 パンプスを置いている場所に、スマホが置いてあった。

 そういえば、途中の廊下では姿を見かけなかった。てっきり部屋の方へ置いてあると思っていて、全然気が付かなかったのだ。
 若干砂のついたスマホを取り出し、代わりにカバンを入れようとしていた。そして、また思考停止した。書類のファイルが入るくらい大きい通勤カバンが、入るわけない。そもそも普段からカバンはここに仕舞わないのである。
 私しかいないはずなのに、誤魔化すように咳払いをした。どちらの手に何を持っているかちゃんと見て確認して、今度こそ、確かにパンプスを仕舞った。次に玄関のドアを注意深く見た。ちゃんと鍵とロックの両方が掛けられていたことを確認して、ようやく肩の力が抜けた。
 戸締りだけはちゃんとできていた。それだけで心の底から安心できたのだ。

 その後も不可解なことは続いた。ホットコーヒーを入れようとしてケトルに水を入れたのに、スイッチをつけ忘れたり。お湯を沸かしているのにマグカップに水を入れて電子レンジで温めていたり。洗い物を洗濯カゴに入れに行ったら洗濯機の蓋が開いていて、中から名刺入れと社員証、部長からの差し入れのどら焼きが発見されたり。ローテーブルにコーヒーを置いてテレビをつけようとしたらエアコンがついたり。

 ここまできたらさすがの私も理解した。
 私は、ひどく疲れている。
 私が思っている以上に、ひどく疲れている。

 とにかく、掃除やら洗濯やら買い出しやらクリーニング出しやら、そういった行動は明日にしよう。明日休みなんだし。
 そう決めてからコーヒーを飲み、どら焼きを頬張った。どら焼きは個包装のビニール袋に包まれていて、袋は多少湿っていたが未開封で穴も空いてなかったため、中身は無事だった。つぶあんのしっとりとした甘みが口に広がり、疲れた体に染み渡っている。
 ゆっくりと咀嚼しながら、テレビを見ていた。夕方のニュース番組では、百貨店の催事場で開催中の北海道物産展の特集が流れている。リポーターの女性が、海鮮丼を綺麗に食べている。山盛りのエビ、カニ、ウニ、イクラ、お刺身。チョコレート菓子の名店や初出店のスイーツなど。どれも美味しそうで目移りしてしまう。そうだ、明日行こう。掃除、洗濯、買い出し、クリーニング、北海道物産展。完璧な休日のスケジュールが頭の中で組み立てられた。

--北海道物産展はST百貨店にて、明日の月曜日、夕方五時まで開催中です。

 場面が切り替わり、スポーツニュースのコーナーへ移った。がっしりした体格の男性アナウンサーが、アメリカのメジャーリーグで活躍する日本人選手の話を熱く語っている。その熱量を画面越しに感じながら、テレビ横の壁に飾ったカレンダーを見た。

 明日の月曜日。

 ニュースキャスターを務める女性アナウンサーがそう言っていた。明日は月曜日だと。
 私の仕事は基本的に土日祝日休みで、プラスアルファとして長期連休や有給休暇の取得を促されている。年度が変わったばかりの今、連休は取得できる雰囲気ではない。つまり、平日にあたる月曜日は出勤日である。

 そうだ。昨日休日出勤したんだった。

 スマホのロック画面をつける。時刻の上に充電の進捗が表示される。一拍置いて、日付が浮かび上がった。

 四月七日 日曜日

 その文字を認識した後、脱力してしまった。ずるずるとカーペットの上を滑るように仰向けになった。途中ベッドのフレームに後頭部を軽くぶつけて身悶えてしまった。
 じんわりと涙が目に浮かんだ。決してぶつけた箇所が痛いからでも、凝り固まった体を無理に動かして悲鳴を上げたからでもない。
 昨日の土曜日は休日出勤をしたため、本来なら月曜日に代休をもらう予定だった。しかし、大事な企画会議が入っていたため、水曜日に変更したのだ。だから明日は通常通り出勤である。

 どっと疲れが押し寄せてきた。一日に二つの山を登山したくらいの疲れである。やったことはないけれど。
 もう何かやろうとする気も起きない。これほど疲れていたならば、普段の自分とはかけ離れた不可解な行動を起こしても仕方ない。それほど疲れているのだ。今日はもう何もしない一日にしよう。
 窓を見ると日が沈んでいて、辺りが夕闇に包まれていた。私はやっとの思いで立ち上がり、部屋の照明をつけてカーテンを閉めた。



『沈む夕日』

4/6/2024, 2:20:05 PM


 勇者と呼ばれる少年と対峙した時、なんと複雑な感情を目に浮かべているのだと思った。仲間であろう剣士や魔術師とも異なる、芯の強さを。

 勇気--今まさに強者へ挑まんとする姿勢が感じとれる。
 自信--おそらくこれまで数々の戦いや冒険から得た経験が表れている。
 覚悟--たとえ自身の命が私と共に消えようとも倒してみせるという意思が宿っている。

 そして、憎悪。

 これはおそらく役立たずの小娘を、奴の目の前で心臓を撃ち抜いたからに違いない。冒険を共にして立ちはだかる壁を乗り越えてきたからか。そんなに心を通わせることができていたとは予想外だった。なんだ、惜しいことをした。もう少し使ってやってもよかったかもしれない。
 まぁ、殺めてしまったのは仕方がない。私はもう一度奴の目をしかと見た。複雑な感情を浮かべた瞳は、やはり強者の目をしている。

 相手にとって不足なし。

「その強さ、私に証明してみせよ」

 奴の目に燃え上がる炎のような光が宿った。




『君の目を見つめると』

4/6/2024, 4:26:36 AM


 星が浮かぶ寒空の下。公園のベンチに二人で腰を下ろして、ポツポツと言葉を交わした。それも次第に途切れてきて、沈黙が続く。君は僕との会話に飽きたのか、星を指差して何かを描こうとしていた。
「何してんの?」
「星座作ろうと思って」
 君はこちらも見ずに、指で空をなぞった。僕も釣られるように空を見上げた。藍色に染まった空に、白い光が点々と浮かんでいる。目で追って星座を描こうにも僕にはちんぷんかんぷんで、唯一オリオン座のような形だけなぞることができた。
 君の指はあちこち空をなぞっているが、同じ場所を行ったり来たりしているようにも見えた。
「できた?」
「うーん、もう少し」
 君の横顔は、顰めっ面をしていた。何を一生懸命描こうとしているのか、不思議でしかなかった。
 二人で公園に入り、ベンチに座ってからどのくらい時間が経ったのだろう。公園の時計を見るともう一時間は経過しているようだった。僕の体感としては、まだ、ほんの十分にも満たない。二人でいると、なぜかいつも針の進みが早かった。
「よし、できた」
 そう呟くと君は手を下ろして、ベンチから立ち上がった。カバンを肩に掛け、ブレザーを整えた。僕も釣られて立ち上がり、リュックを背負った。もういい加減帰らないと、色んな人が心配してしまう。
 僕は左手で君の右手を取った。指を絡めるとより近くに感じる。君は繋がれた自分たちの手を見て、口角を上げるのだ。
 駅までの道を二人でゆっくり歩き出した。
「何座を作ったの?」
「えー? オリジナル」
「名前は?」
「内緒」
 君は笑いながら僕を見上げた。その笑顔が星空の下で輝いて見えた。

 

『星空の下で』

4/5/2024, 5:53:45 AM


「それでいいじゃん」
 彼はスマホから目を離さずにそう言った。いつもなら気にならなかったその態度と台詞が、無性に腹立って仕方なかった。

 土日祝日休みの私と不定休の彼の休日が被ることは稀だ。基本土日祝日は仕事の彼がその曜日に休むことは年に二、三回程度しかない。時短勤務の人や年配者と同居している人が多い職場は、そういった人の希望休暇や融通が優先されるからだ。彼は独身で私と同棲しているだけで、子どももいないしご両親も元気だ。だからシフトの都合上どうしても平日しか休まない。
 私は土日祝日の休暇の他、有給休暇も取りやすい。彼と出かけたい日は彼の休みに合わせて、いつも申請していた。
 今日もそうやってようやく合わせた二人の休みの日だった。朝ゆっくり起きて、お昼過ぎから出かけた。私が気になる映画があったから上映時間に間に合うように観に行った。その後、ドトールに寄って一息ついていたところだった。
 映画の感想をああだこうだ語る私に、ひたすら相槌を打って時々ツッコミをくれる彼。好きなことを喋り倒してしまう私は、大抵聞き流されることが多い。ただ私が内側から溢れる思いを発散したくて、一方的に話すだけだから相手の態度とか反応とかあまり気にしていなかった。けれど彼と出会って、あまりにも当たり前に話を聞いてくれるから楽しくなって、また得意げに語ってしまう。それがいつの間にか日常に変わった。
「次はどこ行こうか?」
 語り尽くした私は、冷めきったホットコーヒーを飲んで一呼吸置いた。
「観たい映画はないの?」
「うーん、今公開されてる映画はもうないかな。ああでも、ほら、さっき予告で流れてたスパイ系の洋画は観たい」
「あー、あれか。好きそう」
「再来月だって」
「待てる?」
「無理。今観たい」
 彼は「顔」と言いながら肩を揺らして笑った。人の顔見て笑うなんて酷い人だ。
 彼はおおらかだ。怒ったり怒鳴ったりしているところは見たことがない。大抵笑って「いいよ」と了承してくれるし、嫌な時はやんわりと断ってくる。付き合い始めた頃はそのやんわり加減がどうにも分からなくて「もっとハッキリ言って」と私が噛み付いていたくらいだった。今はもう慣れたが。
「ネット配信で観てたアニメあるじゃん」
「うん」
「あれの原画展やってるんだよね」
「いいね」
「着いてきてくれる?」
「もちろん」
 私はスマホを取り出して日時を調べようとした。アプリをタップした瞬間、親指が止まった。
 ふと、付き合ってからというもの彼の希望を聞いたことがないことに思い至ったのだ。いつも私の意見に賛成してくれることが多く、意見を言われたことがなかった。
「ねぇ」
「うん」
「たまには貴方の行きたいところ行こうよ」
「え?」
 彼はすごく驚いていた。次の瞬間には、元々垂れていた眉をさらに垂れさせて、困ったように笑った。
「俺は特に」
「でもいつも私の行きたいところへ行ってるでしょう?」
「一緒に行きたいと思ってたし」
「そんな」
 そんなわけないでしょ。
 続けようとした言葉を飲み込んだ。たとえどんなに波長の合うカップルでも、全部同意見なわけがない。でもそれを指摘したら喧嘩に発展しそうで、怖くて口にできなかった。
「原画展ってこれ?」
 彼はスマホ画面をこちらに見せてきた。今まさに話していた原画展のホームページだった。私はまだ声を発するのが嫌で、こくんと頷くだけだった。
「いいね、面白そう。きっと平日の方が人少ないだろうし、行こうよ」
 スマホをテーブルの上に置いて、色んなページを見ていた。グッズ、特典、チケット、アクセス。
 いいね。これ可愛い。こういうの好きだよね。これもいいな。
 彼が口にする言葉が、ただ右から左へ流れていく。
「それじゃあ、結局私の行きたいところじゃん」
「それでいいじゃん」
 彼は至って真面目な顔をして答えた。私はそれ以上言葉が思いつかなくて、はく、と口を動かしただけだった。
 なんで意見を出してくれないのだろう。どうして私の案に乗るだけなんだろう。
 そんな疑問がグルグルと頭の中を巡る。だんだん腹が立ってきた。
 喧嘩はしたくない、仲直りするまでの気まずい時間が苦手だから。でも何か言わずにはいられない。思い浮かぶ言葉は全部攻撃的だ。こんなのぶつけられなくて、冷静になろうと深呼吸をした。
 彼は私の様子なんて気にせず、スマホであれこれ調べていた。電車の時間に、近くの美味しそうなレストラン。そういえば、私は提案するけれど、調べたり計画立てたりするのは彼だったと気がついた。私はネットの情報量の多さに目を回してしまうから、探すのが得意な彼に任せっきりだった。
 気づいたら何か言おうと息巻いていた気持ちが萎んでいく。先程まで怒っていた自分が恥ずかしいとさえ思えてきた。行きたいところを言ってくれないことよりも、共感して一緒に行ってくれる彼がとてもありがたい存在だと感じたのだ。
「ねぇ、じゃあ私が地獄行きたいって言ったら行くの?」
「急だな」
 私の問いにスマホから顔を上げた彼は、軽く体を伸ばしてからコーヒーを飲んだ。同じ体勢でスマホを見ていたから体が固まっていたらしい。
「地獄って観光向きじゃないし、行きたいって言って電車とか飛行機とかで行ける場所じゃないけど」
 彼は腕組みをして首を傾げる。うーん、と唸りながら考えているようだ。
「天国の方が観光しやすいと思うから、地獄より天国行こう」
 やがて彼から出た言葉に、私は口角が緩んだ。
 なんだ、ちゃんと行きたいところ言えるじゃん。

 



『それでいい』

4/3/2024, 10:56:45 PM


 数多ある事柄から

 選りすぐった精鋭しかいないので

 たとえひとつだけとはいえ

 これ以上増やすことも減らすことも

 したくないのです



『1つだけ』

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