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 終業時間まであと三十分。順調に業務をこなし、残業なく定時で上がれると思っていた矢先のこと。
 取引先との商談内容にとんでもないミスが発覚した。
 担当者は上司に対してひたすら謝り、上司は担当者を引き連れて上長へ報告をし、上長が怒りを通り越して立ちくらみに見舞われ。部署内が騒然とした。
 気を取り直した上長の怒号もとい指示のもと、出勤していた人全員で修正作業にあたった。もちろん、残業代はしっかりもらえるよう、社内PCは落とさないし、タイムカードも押さない。修正作業は、終電ギリギリまで続いた。

   *

 なんとか走って終電に乗り込めた。最寄り駅で降りてコンビニでお弁当を買い、家に着いて。
 それからの記憶が曖昧だ。
 私は今、目覚めたら西陽の差し込む窓を見て眩しいと感じた。目がチカチカする中、何度も瞬きを繰り返して、ようやく違和感に気がついた。

 カーテンは?

 閉めた覚えがない。その記憶は確かなようで、窓枠の隅に括り付けられている。かろうじて薄いレースのカーテンがかかっていたが、強い西陽の前には無いも同然である。
 そこではた、とまた疑問を持つ。

 西陽?

 一人暮らししているこのアパートの部屋は南西向きである。朝の時間帯は日陰になり肌寒いのだが、正午を過ぎたあたりからぐっと室温が上昇する。カーテン無しのこの部屋は、夏になると灼熱地獄と化するのだ。
 そんな熱くてたまらない西陽が降りそそぐ時間帯とは、午後である。よく外を見ると空は白けてきて、太陽は茜色に染まっている。かなり日が傾いてきた証拠だ。私はようやく体を起こして、あまりの関節の痛みに絶えられず、呻き声を上げながらまた伏せた。

 昨夜の私はベッドにたどり着く前に気絶したらしい。フローリングの上に敷かれたラグの上で、うつ伏せの状態だった。いつまでもこの体勢ではいられないので、なんとか体を起こす。凝り固まった筋肉がほぐれるように、と願望まじりに腕を頭上で伸ばしたら体と私から悲鳴が上がった。とんでもない痛みだった。
 ふと見下ろすと、昨日着ていた上下スーツのままだった。ジャケットはくたびれていて、ブラウスとスカートは不自然なシワが寄ってしまった。スーツは替えがあるから明日休みの日にクリーニングへ出せばいいし、ブラウスは洗えば元通り整うだろう。
 私は何とか立ち上がってジャケットを脱ぎ、ハンガーに掛けた。ラックにかけるときに、やっと足元が変な感じだと思った。見下ろすと、左足だけパンプスを履いていたままだった。

 一瞬動きを止めてしまったが、とりあえずパンプスを脱ぐことはできた。そして、パンプスを手にキッチンへ入って、冷蔵庫の扉に手をかけた。

 あれ、その前に玄関へ行くべきでは?

 その考えに頭が追いついたときには、すでに冷蔵庫を開けていた。中には、昨日コンビニで買ったお弁当と、もう片方のパンプスが入っていた。
 状況が読み込めず、一度扉を閉じた。私、まだ寝ぼけているのかもしれない。頭を振って再度何回か瞬きをし、深呼吸をした。先ほどより少し頭の中がクリアになった気がする。

 気を取り直して、私はもう一度冷蔵庫を開けた。

 中には、コンビニ弁当と、パンプスが入っていた。

 やはり何も間違っていなかった。
 私は膝から崩れ落ちそうになりながら何とか持ち堪え、パンプスをそっと取り出した。これは、冷蔵庫の掃除をするべきだろう。土足を冷蔵していたところにそのまま食材入れるのは、想像しただけで気持ち悪い。今日はもう遅いから、明日の休みにやろう。クリーニングの次の項目に冷蔵庫の掃除が追加された。

 左右揃ったパンプスを手に、玄関へ向かう。途中廊下でカバンとその中身がぶちまけられていたので、拾いながら進む。財布、キーケース、パスケース、ポーチ、手帳、水筒、折り畳み傘、ハンカチ、ティッシュ、厄除けのお守り。手荷物いっぱいになりながら着いた玄関には、特に何も違和感がなかった。無事な玄関にホッとして、パンプスをしまおうとシューズボックスを開けた。

 パンプスを置いている場所に、スマホが置いてあった。

 そういえば、途中の廊下では姿を見かけなかった。てっきり部屋の方へ置いてあると思っていて、全然気が付かなかったのだ。
 若干砂のついたスマホを取り出し、代わりにカバンを入れようとしていた。そして、また思考停止した。書類のファイルが入るくらい大きい通勤カバンが、入るわけない。そもそも普段からカバンはここに仕舞わないのである。
 私しかいないはずなのに、誤魔化すように咳払いをした。どちらの手に何を持っているかちゃんと見て確認して、今度こそ、確かにパンプスを仕舞った。次に玄関のドアを注意深く見た。ちゃんと鍵とロックの両方が掛けられていたことを確認して、ようやく肩の力が抜けた。
 戸締りだけはちゃんとできていた。それだけで心の底から安心できたのだ。

 その後も不可解なことは続いた。ホットコーヒーを入れようとしてケトルに水を入れたのに、スイッチをつけ忘れたり。お湯を沸かしているのにマグカップに水を入れて電子レンジで温めていたり。洗い物を洗濯カゴに入れに行ったら洗濯機の蓋が開いていて、中から名刺入れと社員証、部長からの差し入れのどら焼きが発見されたり。ローテーブルにコーヒーを置いてテレビをつけようとしたらエアコンがついたり。

 ここまできたらさすがの私も理解した。
 私は、ひどく疲れている。
 私が思っている以上に、ひどく疲れている。

 とにかく、掃除やら洗濯やら買い出しやらクリーニング出しやら、そういった行動は明日にしよう。明日休みなんだし。
 そう決めてからコーヒーを飲み、どら焼きを頬張った。どら焼きは個包装のビニール袋に包まれていて、袋は多少湿っていたが未開封で穴も空いてなかったため、中身は無事だった。つぶあんのしっとりとした甘みが口に広がり、疲れた体に染み渡っている。
 ゆっくりと咀嚼しながら、テレビを見ていた。夕方のニュース番組では、百貨店の催事場で開催中の北海道物産展の特集が流れている。リポーターの女性が、海鮮丼を綺麗に食べている。山盛りのエビ、カニ、ウニ、イクラ、お刺身。チョコレート菓子の名店や初出店のスイーツなど。どれも美味しそうで目移りしてしまう。そうだ、明日行こう。掃除、洗濯、買い出し、クリーニング、北海道物産展。完璧な休日のスケジュールが頭の中で組み立てられた。

--北海道物産展はST百貨店にて、明日の月曜日、夕方五時まで開催中です。

 場面が切り替わり、スポーツニュースのコーナーへ移った。がっしりした体格の男性アナウンサーが、アメリカのメジャーリーグで活躍する日本人選手の話を熱く語っている。その熱量を画面越しに感じながら、テレビ横の壁に飾ったカレンダーを見た。

 明日の月曜日。

 ニュースキャスターを務める女性アナウンサーがそう言っていた。明日は月曜日だと。
 私の仕事は基本的に土日祝日休みで、プラスアルファとして長期連休や有給休暇の取得を促されている。年度が変わったばかりの今、連休は取得できる雰囲気ではない。つまり、平日にあたる月曜日は出勤日である。

 そうだ。昨日休日出勤したんだった。

 スマホのロック画面をつける。時刻の上に充電の進捗が表示される。一拍置いて、日付が浮かび上がった。

 四月七日 日曜日

 その文字を認識した後、脱力してしまった。ずるずるとカーペットの上を滑るように仰向けになった。途中ベッドのフレームに後頭部を軽くぶつけて身悶えてしまった。
 じんわりと涙が目に浮かんだ。決してぶつけた箇所が痛いからでも、凝り固まった体を無理に動かして悲鳴を上げたからでもない。
 昨日の土曜日は休日出勤をしたため、本来なら月曜日に代休をもらう予定だった。しかし、大事な企画会議が入っていたため、水曜日に変更したのだ。だから明日は通常通り出勤である。

 どっと疲れが押し寄せてきた。一日に二つの山を登山したくらいの疲れである。やったことはないけれど。
 もう何かやろうとする気も起きない。これほど疲れていたならば、普段の自分とはかけ離れた不可解な行動を起こしても仕方ない。それほど疲れているのだ。今日はもう何もしない一日にしよう。
 窓を見ると日が沈んでいて、辺りが夕闇に包まれていた。私はやっとの思いで立ち上がり、部屋の照明をつけてカーテンを閉めた。



『沈む夕日』

4/7/2024, 11:01:44 PM