139

Open App


「それでいいじゃん」
 彼はスマホから目を離さずにそう言った。いつもなら気にならなかったその態度と台詞が、無性に腹立って仕方なかった。

 土日祝日休みの私と不定休の彼の休日が被ることは稀だ。基本土日祝日は仕事の彼がその曜日に休むことは年に二、三回程度しかない。時短勤務の人や年配者と同居している人が多い職場は、そういった人の希望休暇や融通が優先されるからだ。彼は独身で私と同棲しているだけで、子どももいないしご両親も元気だ。だからシフトの都合上どうしても平日しか休まない。
 私は土日祝日の休暇の他、有給休暇も取りやすい。彼と出かけたい日は彼の休みに合わせて、いつも申請していた。
 今日もそうやってようやく合わせた二人の休みの日だった。朝ゆっくり起きて、お昼過ぎから出かけた。私が気になる映画があったから上映時間に間に合うように観に行った。その後、ドトールに寄って一息ついていたところだった。
 映画の感想をああだこうだ語る私に、ひたすら相槌を打って時々ツッコミをくれる彼。好きなことを喋り倒してしまう私は、大抵聞き流されることが多い。ただ私が内側から溢れる思いを発散したくて、一方的に話すだけだから相手の態度とか反応とかあまり気にしていなかった。けれど彼と出会って、あまりにも当たり前に話を聞いてくれるから楽しくなって、また得意げに語ってしまう。それがいつの間にか日常に変わった。
「次はどこ行こうか?」
 語り尽くした私は、冷めきったホットコーヒーを飲んで一呼吸置いた。
「観たい映画はないの?」
「うーん、今公開されてる映画はもうないかな。ああでも、ほら、さっき予告で流れてたスパイ系の洋画は観たい」
「あー、あれか。好きそう」
「再来月だって」
「待てる?」
「無理。今観たい」
 彼は「顔」と言いながら肩を揺らして笑った。人の顔見て笑うなんて酷い人だ。
 彼はおおらかだ。怒ったり怒鳴ったりしているところは見たことがない。大抵笑って「いいよ」と了承してくれるし、嫌な時はやんわりと断ってくる。付き合い始めた頃はそのやんわり加減がどうにも分からなくて「もっとハッキリ言って」と私が噛み付いていたくらいだった。今はもう慣れたが。
「ネット配信で観てたアニメあるじゃん」
「うん」
「あれの原画展やってるんだよね」
「いいね」
「着いてきてくれる?」
「もちろん」
 私はスマホを取り出して日時を調べようとした。アプリをタップした瞬間、親指が止まった。
 ふと、付き合ってからというもの彼の希望を聞いたことがないことに思い至ったのだ。いつも私の意見に賛成してくれることが多く、意見を言われたことがなかった。
「ねぇ」
「うん」
「たまには貴方の行きたいところ行こうよ」
「え?」
 彼はすごく驚いていた。次の瞬間には、元々垂れていた眉をさらに垂れさせて、困ったように笑った。
「俺は特に」
「でもいつも私の行きたいところへ行ってるでしょう?」
「一緒に行きたいと思ってたし」
「そんな」
 そんなわけないでしょ。
 続けようとした言葉を飲み込んだ。たとえどんなに波長の合うカップルでも、全部同意見なわけがない。でもそれを指摘したら喧嘩に発展しそうで、怖くて口にできなかった。
「原画展ってこれ?」
 彼はスマホ画面をこちらに見せてきた。今まさに話していた原画展のホームページだった。私はまだ声を発するのが嫌で、こくんと頷くだけだった。
「いいね、面白そう。きっと平日の方が人少ないだろうし、行こうよ」
 スマホをテーブルの上に置いて、色んなページを見ていた。グッズ、特典、チケット、アクセス。
 いいね。これ可愛い。こういうの好きだよね。これもいいな。
 彼が口にする言葉が、ただ右から左へ流れていく。
「それじゃあ、結局私の行きたいところじゃん」
「それでいいじゃん」
 彼は至って真面目な顔をして答えた。私はそれ以上言葉が思いつかなくて、はく、と口を動かしただけだった。
 なんで意見を出してくれないのだろう。どうして私の案に乗るだけなんだろう。
 そんな疑問がグルグルと頭の中を巡る。だんだん腹が立ってきた。
 喧嘩はしたくない、仲直りするまでの気まずい時間が苦手だから。でも何か言わずにはいられない。思い浮かぶ言葉は全部攻撃的だ。こんなのぶつけられなくて、冷静になろうと深呼吸をした。
 彼は私の様子なんて気にせず、スマホであれこれ調べていた。電車の時間に、近くの美味しそうなレストラン。そういえば、私は提案するけれど、調べたり計画立てたりするのは彼だったと気がついた。私はネットの情報量の多さに目を回してしまうから、探すのが得意な彼に任せっきりだった。
 気づいたら何か言おうと息巻いていた気持ちが萎んでいく。先程まで怒っていた自分が恥ずかしいとさえ思えてきた。行きたいところを言ってくれないことよりも、共感して一緒に行ってくれる彼がとてもありがたい存在だと感じたのだ。
「ねぇ、じゃあ私が地獄行きたいって言ったら行くの?」
「急だな」
 私の問いにスマホから顔を上げた彼は、軽く体を伸ばしてからコーヒーを飲んだ。同じ体勢でスマホを見ていたから体が固まっていたらしい。
「地獄って観光向きじゃないし、行きたいって言って電車とか飛行機とかで行ける場所じゃないけど」
 彼は腕組みをして首を傾げる。うーん、と唸りながら考えているようだ。
「天国の方が観光しやすいと思うから、地獄より天国行こう」
 やがて彼から出た言葉に、私は口角が緩んだ。
 なんだ、ちゃんと行きたいところ言えるじゃん。

 



『それでいい』

4/5/2024, 5:53:45 AM