日中の暖かい日差しを一掃するように、風が強く吹いた。方角はわからないけど、強くて冷たい風だ。私は思わず身震いした。
今朝、コートを羽織らずに登校しようとしたら、母に止められた。渋々いつもの紺のピーコートと白いマフラーを身につけて学校へ行った。友達はコートなしで登校している子も多かったから、三月にもなってコートを着るなんてちょっと恥ずかしいとさえ思っていた。
でもいざ放課後になって、部活も終える頃にはすっかり暗くなっていて、空気がひんやりする。日中の暖かさはどこへやら。あまりの寒さに冬へ逆戻りしたのかと思った。手袋は忘れてしまったから、手を擦り合わせたり、ポケットへ入れたりと忙しなく動かしていた。
こんなに寒い日は早く帰ろうと思う。でもなんとなくまっすぐ帰りたくなくてゆっくり足を動かす。ぼんやりと歩いていたら、いつもは通り過ぎていた本屋さんの前に差し掛かった。本は読まないし、欲しい雑誌も漫画も特にない。それでもいつの間にか足を踏み入れていた。
店内は人がポツポツといた。駅ビルの上層階にある本屋と比べて、こちらは静かで落ち着いている。いつも本屋へ行くと雑誌コーナーで立ち読むか、漫画コーナーで新刊をチェックする。今日はそんな気分でもないから、フラフラ店内を歩いていた。
文芸コーナーの中で一番目立つところに、厚みのある本が積まれていた。平積みの後ろには表紙が見えるように陳列されている。いつもなら気にならない場所なのに、思わず立ち止まってしまった。
著者は知らない。作品も知らない。本と一緒に並べられたポップには、"この町に住んで……"という見出しがついていた。"この町"とは、私が住んでいる地名だった。
急に親近感が湧いた。自分の住んでいる町に、小説家の先生がいる。郊外の閑静な住宅街である、この町に住んでいる人が、小説を書いて、本を作った。それがこの町の本屋に並んでいる。
不思議な気分で眺めていた。本の帯には"芥川賞作家"という文字が書いてある。ニュースで見たことのある言葉だ。とんだ有名人がこの町に住んでいる。どんな人なのか。どんな小説を書くのか。強く興味が惹かれて、ついには手に取った。
ずっしりとした重みがあり、硬いハードカバーに覆われていた。こんなに厚みのある本を手に取ったのは初めてだ。帯の背表紙や裏表紙の面を読んだ。"著者最高到達点"や"衝撃作"の文字を見て一気に期待が高まる。私はこの本を読んだら、読む前よりも賢くなるのかもしれないと本気で思った。
そんな熱も冷める文字を見つけてしまった。税込二千五百円。漫画だと五冊買えるし、雑誌は二冊でお釣りがもらえる。写真やイラストが載っていなくて活字しか並んでないくせに高い。高校生の買い物にしては高すぎる。
手に取った本をそっと戻した。誰にも見られてないからちゃんと確認して、平然と戻した。今月は好きなアイドルのCDリリース日が控えている。我慢するしかない。
諦めて棚から離れようとしたら、視界に入ってしまった。表紙を陳列している段に、なんと"著者サイン本"と書かれている。小説家の先生がこの本にサインしているらしい。この郊外の町で、サイン会でも開かれたのだろうか。でも、有名人のサインなら欲しい。棚に並んでいる数冊しかもうないみたいで、大変希少価値が高い気がしてしまう。
私はサイン本を手に取った。アイドルのCDはすぐにはなくならないけれど、このサイン本は絶対なくなる。それならすぐになくなってしまう方を買っておかねばならない。絶対これを逃したら、私は後悔する。
そうして、アイドルのCDに替わって買ってきてしまった。小説を読まない私が、どこの誰とも(一緒の町に住んでいる小説家)知らない人が書いたサイン本を。私は本を前にして、床に正座した。なんとなく、姿勢を正さないといけない気がした。
そっと持ち上げて、シュリンクを丁寧に剥がす。深呼吸をして、本を開いた。表紙を開けて早々、遊び紙のところに著者名と印鑑が押されていた。
「おおっ」
思わず声が漏れた。芸能人のようなミミズみたいななんかよくわからないサインとは違う。サインらしく少し崩れているけれど、ちゃんと著者名が読める。印鑑は四角い古印体だ。中学生の頃、美術の授業で彫ったことのある字体だから見覚えがある。なんだかこのページだけ御朱印みたいで神々しく感じる。
ただのミーハー心がくすぐられて、知りもしないのに買ってしまったけど、買ってよかったかもしれない。
私はページを捲って、とうとう本文に辿り着いた。ここからが、私自身との勝負である。せっかく高い買い物したんだからちゃんと読もう。読み切れるかの不安よりも、少しの好奇心が勝ってページを捲った。
この日から、新たに趣味の欄には読書の項目が加わった。
『胸が高鳴る』
異動になった。
入社してまだ半年未満の九月一日からとの話だった。
確かに失敗ばかりした。毎日先輩に怒られて、上司に怒られて。課長とか部長とか執行役員とか全然顔合わせたことのない、なんかよくわからないもっと偉い人にも怒られた。
それでも二度と怒られないように細心の注意を払って、少しずつ慣れたと思ったら。
「この業界の異動は多いから」
入社してすぐの顔合わせからまだ二回しか会ってない、よくわからない上司から告げられた。そういえば今日は上司と目が合わなかった。不意にそらされていて、今思えば気まずかったのかもしれない。
「次のところはめちゃくちゃ優しい人だから大切にしてもらえると思うよ」
その言葉に、なぜか私は一筋の涙を流していた。自分でもなぜ泣いているのかわからない。頑張ろうと決意した矢先に出鼻を挫かれたからか。それともようやくこの地獄から抜けられるからか。
「次のところで頑張ろうね」
投げかけられた言葉に、「はい」と返事しながら頷いた。
それが地獄の悪循環に繋がるとは知らなかった。
『不条理』
泣かないよ
泣くわけないじゃない
なんで、アンタなんかのために
私が泣かなきゃいけないの
流す涙がもったいない
そうやって勝手に弱いと決めつけないで
私は私のために泣いているの
アンタなんか
私にとってその程度の価値しかないの
『泣かないよ』
寝るのが無性に怖い時がある。
二度と目覚めなかったらどうしようという不安と
朝時間通りに起きられるかという不安と
明日まともに仕事できるかという不安と
この先このままでいいのかという不安と
今何かやめたり変えたりして大丈夫かという不安と
新しい一歩が間違ってしまわないかという不安とが
ひたすら頭の中で回っている。
そんな自分がまた不安で仕方なくて。
ひたすら落ち着くように深呼吸をして。
それでも不安に押し潰されそうで。
力の弱い自分は押し返せなくて。
自分はこの漠然とした不安が怖くて。
でも誰にも打ち明けられなくて。
怖くて怖くてたまらないのに。
過ぎ去るのを堪えるしか方法がわからなくて。
あぁ、ほら。
気がついたら朝だ。
『怖がり』
溢れた星を一つ一つ拾い集めた。
拾って、入れて。
拾って、入れて。
やがて籠いっぱいになって溢れ落ちる。
それもまた拾い集めて、でも溢れ落ちて。
なんでこんなことやっているんだろう。
途方もない繰り返しにやるせなくなって。
星の輝きが酷く鈍くて。
もうこんなことやめようと、星を手放したら
君が拾って渡してくれた。
そうだった。
拾い集めているうちに
僕の大切なものになったのだ。
もう落とさないように、丁寧に籠へ入れていく。
やがて籠の中は他の星たちに負けないくらい
大きな輝きを放った。
『星が溢れる』