どうか
最期目に映した情景が
あなたにとって
幸せな思い出でありますように
『安らかな瞳』
今までずっと隣で澄ました顔して
散々佇んでいやがったくせに
なんで突然いなくなんだよ
確かに自分はあの人の隣に立ちたかったよ
それは今でも気持ちは変わらない
でもアンタを越えて立たないと意味ないんだよ
なに勝ち逃げしてんだよ
戦わせろよ、せめて
『ずっと隣で』
毎週金曜日、二十二時。
仕事が終わって一度帰宅して、着替えてからまた出掛けるようになって三ヶ月。暗い道を歩いて、駅を挟んで反対側にある繁華街を目指す。お目当ては、こぢんまりとしたバーだ。
ドアベルを鳴らしながら店内へ足を踏み入れる。オレンジ色の照明に照らされた店内は、ドラマに出てくる古典的な雰囲気が漂っている。カウンターに六席と、テーブル席が二つ。私は迷わずカウンター席へ腰を下ろした。両端には別の客が座っていたから、奥から一つ開けて座る。
目の前のバーテンダーと目が合って会釈を交わした。ここ最近、毎週のように通う女の一人客が珍しいのかもしれない。古き良きインテリアに囲まれたこの店には、飲み慣れた男性客が多い。
「ブラッディメアリーを」
「かしこまりました」
バーテンダーは私の注文を聞くと、目の前から離れた。私はカウンターに肘をついてぼんやりとバックバーを眺めていた。ズラリと並ぶ酒瓶は、一体どういう種類のお酒なのか。詳しくない私には味が想像できない。
「お待たせしました、ブラッディメアリーです」
「ありがとうございます」
また目が合い、少し微笑み返した。バーテンダーは気を悪くした様子もなく、また黙々と作業し始めた。
ここのバーに通い始めてから知ったカクテルは、赤い見た目の通り濃厚な味わいだ。少し舌がピリッとするのも、飲み続ければ覚えてしまった。口の中で楽しむように、少しずつ含んだ。
やがて、ドアベルが鳴って、新しい客が入ってきた。その時私は一杯目を飲み終える頃で、ほろ酔いだった。横目でチラリと見たはずが、ガッツリと顔を向けていたと思う。来店した客の出立ちに、心臓が跳ねた。
スマートにスーツを着こなした男性だった。髪は後ろへ撫でつけられていて、意志の強そうな顔立ちをしている。彼は私がじっと見ていることに気がついたようで、目が合った。またドキッと胸が高鳴った。
男性客はそのまま、私の隣の席に腰を下ろした。
「ジンをロック、シングルで」
「かしこまりました」
いつの間にか現れたバーテンダーに注文をつけると、それまで彼の一挙一動を見ていた私の方へ顔を向けた。彼の黒い瞳が私を見つめ返してきた。私は急に恥ずかしくなって、カウンターテーブルから手を下ろした。
「君は?」
「え?」
「次、何飲む?」
グラス、空だけど。
彼は私のグラスを指差した。私はハッとして、次を注文しようとしたが、なかなか思いつかない。何も言わずに迷う私を、彼はただ笑みを浮かべながら様子を窺っていた。
「私、お酒に詳しくなくて」
「うん」
「さっきまではちょっと辛口を飲んでいたんですけど、今はさっぱりしたものとか甘いお酒が飲みたくて。何かオススメありますか?」
彼は、私がそう告げると口角を上げて頷いた。
「じゃあ俺がオーダーしていい?」
「はい、お願いします」
私が返事するや否や、彼は少し身を乗り出してバーテンダーへ耳打ちした。頷いたバーテンダーは、チラッとこちらを一瞥してこの場を離れた。
彼は座り直して、私と当たり障りのない言葉を交わした。
彼は加藤と名乗った。この店の近くの会社に勤めているらしい。年齢は三十代と言ったが、私はもっと年上だと思っていたからびっくりした。バツイチ独身で一人暮らし。残業で遅くなった金曜日は、よくここで飲んで帰るらしい。
私も聞かれるがまま、自分のことを話した。みんなからリナと呼ばれていること。同じく会社勤めなこと。年齢は二十代であること。家族も恋人もいないこと。毎週金曜日、もう少し早い時間にこの店に来ること。
ポツポツと交わしていた会話が、いつしか二人で盛り上がっていた。彼は、話を聞く私に気を良くしたのか、どんどんグラスを開けていく。しまいには私にもお酒をたくさん勧めてきた。
「ずいぶん、お酒にお詳しいんですね」
「飲み歩くのも、家で飲むのも好きでね」
「お家でもこんなにたくさん飲まれるんですか?」
「家の方がもっと浴びるように飲むよ」
「え、すごーい! お酒に詳しい方って大人で魅力的なイメージです」
「さぁ、どうかな」
「私、もっと知りたいです」
そう言って、ルシアンの入ったグラスを傾けた。ショートグラスのそれは、あっという間になくなってしまった。口の中で甘い香りを堪能していると、グラスのそばに置いていた手に、彼のソレが重なった。大きくて温かい彼の手に包まれ、私はピクッと体が跳ねた。
「もし良ければ、君にピッタリのお酒を見せたいんだけど、来る?」
「どこへ?」
その問いは、笑って誤魔化されてしまった。包まれていた手が、いつの間にかギュッと握られていた。離そうとすると、余計に捕まえてきた。そして、手を引っ張られた。座った状態で軽く彼の方へ引っ張られれば当然バランスを崩してしまい、しなだれかかるようになってしまった。彼は平然とした顔で私を受け止めて、腰に手を回しながら
「俺の家」
とだけ耳元で囁いた。私は酔ってぼんやりとした視界の中、顔を上げて至近距離で彼を見た。こちらを見透かすような黒い瞳が、こちらを捉えて離さない。
私は彼の胸に、もう片方の手でそっと触れた。
「加藤さんのこと、もっと知りたい」
「なら、おいで」
私は頷くのがやっとだった。
チェックを済ませて店を出た。いつも一人で帰路につくのとは違い、隣には彼がいた。彼は当たり前のように私の腰に手を回して、道行くタクシーを止めた。乗り込む時には、これから向かう場所に少しの期待と胸の高鳴りで、私の心が支配されていた。
キスも出来そうな至近距離で見つめ合いながら、私は考えていた。
あの子を地獄に落としたこの野郎を、ようやく叩き潰すチャンスが来た、と。
『もっと知りたい』
至って普段と変わらない。
繁忙期の最中で癒しの休日だったあの日。私は溜まった家事もそこそこに、街へ繰り出した。普段は朝晩にしか外へ出歩かないから何を着て行くか、服装に困った。結局通勤で着ているコートを羽織って外へ出た。日中は冷たい空気の中に、日の暖かさを感じられるようになっていた。春はもう直ぐ迫っていた。
平日の仕事疲れを多少引きずりながらも、外に出たのには訳がある。私が大好きなアイドルが、最近公開されたばかりの映画に出演しているのだ。しかも私の推しは主演の探偵役で、相棒役は旧知の仲の実力派俳優。息の合ったコンビネーションが見られるのではと、期待せずにはいられない。逸る気持ちで映画館へ向かった。
最高だった。その一言に尽きる。
私は心ここに在らずなまま、映画館を後にした。足を動かしながら、頭では先ほど観た映画のことでいっぱいだった。
まさかアクションシーンがあるとは知らなかったから、推しのカッコいい姿をふんだんに見られて感激した。それだけではない。息の合ったコンビネーションは、映画の至る所に散りばめられていた。二人の行動、言葉、仕草。少し間違えれば尾を引きそうなシーンを、あっさりこなしてしまい、さらにアドリブだろうセリフの応酬まであった。さすが推しと推しの友人さん、素晴らしい。
頭であれこれ考えていたが、少し整理したい。ついでに糖分を頭に入れたい。この横断歩道を渡った先に、確か新しくオープンしたばかりのカフェがあったはず。そこへ行こう。
信号が青になった。大勢の人の波に流されるように、歩き始めた。
ふと、向こう側から歩いてくる人と目が合った。カラコンでも入れているのか、吸い込まれるようなヘーゼルの瞳がこちらを見つめていた。周りでは見かけない瞳の色だからだろう、今でも印象に残っている。ほんの一瞬、ほんの数秒の出来事だった。そのあとは何事もなくすれ違い、気がつけば横断歩道を渡り切っていた。
今思えば、この時から私の日常は崩れ始めたのかもしれない。
『平穏な日常』
(嵐の前の静けさ)
かつての僕でさえ心底望んだ
愛に満ち溢れた平和な世界に
あなたがいないというだけで
途端に生きづらいと感じます
『愛と平和』