縋りつくなんて真似、みっともなくてできないと思っていた。
好意という感情に振り回されて自制を失うなど、愚か者のすることだとも思っていた。
違う。
自分がそんな情動に呑まれてしまうのが怖かっただけだ。
ずっと恐れを抱いていた感情は、身を任せてみれば存外甘美で心地よく、しかし同時に底無しの沼に足を取られたかのように際限がなく。
こんな気持ちをあなたに知られたら、重い奴だと忌避されないだろうか。潰しはしないだろうか。去っていかないだろうか。
そんな新たな恐れを抱きながら、それを決して悟らせまいと、あなたの手に自分の手をそっと重ねる。感情に蓋を被せるような慎重さで乗せた掌の隙間から、それでもほんの僅かにどろりと漏れた情念が、か細い掠れた音となって唇からこぼれた。
「どこにもいかないで」
心からの敬意と、大きな憧れと、ほんの少しの羨望と。
それらを抱えながらあなたの背を追い続けている。
「師が針で、弟子は糸。針は糸を導いて先をゆくが、いずれ抜けていなくなるものだ」
その言葉どおり、とうにあなたはいなくなったが、未だに私はいなくなったあなたの背を見つめ追い続けている。何かとてつもないことをやり遂げる偉大な人間にはなれないが、せめてあなたに、自分に恥じない生き方をしたいと誓い、願う。
紫陽花の葉に溜まった雨滴の香りを嗅ぐ。鼻の奥が沁みるようにツンとするのは、湿った植物から立ち昇る独特の匂いのせいばかりではなく。
雨はわずかながらに勢いを増して、けれど静かに降り続く。私は自分の身体を濡れるに任せたまま立ちつくす。
今日のかなしい出来事に、耐えきれずこぼれた涙の跡を、雨の香りのせいなのだと私は自分自身に言い訳する。
どんなに途方もない願いでも、どんなに困難な望みでも、乞い続け、恋い続け、請い続ける限り手を伸ばさずにはいられない。
およそ三十年ぶりに訪ねた町は、すっかり様相を変えていた。
かつて自分が住んでいた家は残っていたが、周辺の家屋は記憶のままなところもあれば、新たな家が建っているところもある。なかには何があったか思い出せない空き地もあった。
当時工事中だった新たな車道は開通して久しく、それどころか全く知らない新しい道もできている。
スマホで地図アプリを起動する。少し離れた場所に公園があったはずだが、朧げな記憶の中の道順と、アプリ上に示されている順路がどうにも噛み合わない。当時田畑だった場所が軒並み宅地化してしまったせいだろうか、昔何度も通ったはずなのに、知っていたはずの道ですら知らない道のようだ。
記憶の中の地図は、すっかり当てにならない代物と化してしまった。