君の顔を見た瞬間、やるせない怒りが脳を灼いた。
微かに腫れた目元と、頬に残った乾いた潮の跡に、君がまたひとりで泣いていたことを知る。
君を泣かせた何かに対する憤懣は当然ある。でも同時に君に対しても理不尽な怒りをいだく。
どうして何も相談してくれない。どうして自分を頼ってくれない。どうしてひとりで耐えてしまおうとするのだ。
感情のままに怒声を響かせそうになったその瞬間、君がとても綺麗に微笑む。何もかも自分の身の内に沈めて吐露するつもりはないのだと。そんな顔をされてしまったら、自分は黙るしかない。喉元まで競り上がった言葉を無理やり嚥下する。
君と並んで歩き出す。ぽつぽつと会話をしながら呑み込んだ言葉を持て余す。怒りの波は沈まれど、完全に消えたわけではない。
一番腹立たしいのは、君が安心して心を預けられるだけの度量を持たない、自分自身の不甲斐なさだ。
気がつけば、慌ただしく過ぎ去る日々に紛れて、果たせないままの「またいつか」が山のように積み上がってしまっている。きっとこれからも増える一方だ。心残りが増えていく。小さな未練が増えていく。生きる理由が増えていく。
夏という単語自体に変化はないが、その実態やイメージは10年前、20年前、そして恐らく100年前と比べて随分変遷してきているのだろうなと、昨今の酷暑に鑑みて思う。
一昔前までは30℃程度で「今日は暑いね」などと言っていたはずなのに、連日40℃前後に晒され続けると、「今日はなんだか涼しいね」と言いながら温度計を確認したら30℃を指していた、なんてことがざらにある。人間の環境適応力を誇ればいいのか、環境にいとも簡単に騙くらかされて慣らされている現状を嘆けばいいのか、微妙な心境である。
10年後、20年後、100年後の夏がどうなっているか、想像するだに恐ろしい。ただ人間は、扇子やうちわ、扇風機、エアコンと次々に文明の利器を進化させながら対応できる程度には小賢しくしぶといので、これからもなんのかんのと対応しながらどうにかやっていくのだろう。
それは空に恋をしたようなものだった。
最初から絶対に手が届かないと分かっていたから。
その想いは自覚した瞬間に諦めなければならなかったが、それですぐに忘れられるわけもなく、時間が癒してくれるのを待つことしかできない。
空っぽになった恋は未だにその形骸を留めている。
夜の海が好きだ。
昼間の喧騒に紛れると聞き逃してしまうような、水面の襞から響く微かな音も拾えるような気がするから。
もし静寂に音というものがあるならば、きっとこのようなさざめきなのだろう。