(相合傘)
「——ああ、うぅーん…どうしよ。」
アスファルトに弾けて小さくなった雨の粒が、サーサーと音を鳴らす、静かな夜だった。僕の目の前で立ち止まった人間は湿った前髪をかき上げ、低く唸るように呟いた。
真っ黒な瞳が、僕の体を何か汚い物でも見るかのように見回す。数秒そうしてから目を逸らして僕に背を向けた人間は、暗い空を見上げてぶつぶつと唸っている。
「ハア、鬱陶しいなあ、何もしないなら早くどっか行けよ。」
ずっと黙っていた僕の、突然の声に驚いたのか、目の前の人間は目を丸くして振り返った。
何人だっただろうか、僕の雨に濡れた姿に、興味を示した人間は。大丈夫?だの、かわいそうだの、いうだけ言って、結局何もせず立ち去る。その度にどれだけ自分が惨めに感じたことか。
今回もまた、何事もなかったかのように、踵を返して立ち去るのだろう。期待なんかしても、意味ないか。
そう思った時。僕の体に降りかかっていた雨が、突然止んだ。上を見上げて、暗い空と僕の瞳を隔てていたのは、透明なビニール傘だった。いつのまにか遠くなった人間の背中を見つめる。不意に、心から感情が溢れて、小さな声になった。
「———置いてかないで。」
ピタリ、と足が止まってしまった。一瞬、ほんの一瞬だけ、寂しさに震えた声が、聞こえた気がした。聞き間違いかもしれない。でも。
「…あーあ、飼わないって決めてたのになあ。」
小走りで駆け寄ると、それは小さな身体を身軽に持ち上げて、一番大きな声を出した。
「…一緒に帰るか。」
抱き上げようとしたその時、雨でずぶ濡れのけむくじゃらはジタバタと、小さな足を動かしてみせた。
「元気だな、こりゃあ。」
仕方なく、諦めて、ダンボール箱に立てかけた傘を持ち上げる。歩き始めると真横についてくるそれに、思わず笑みがこぼれた。
「…ふふ、相合傘だね。」
「ニャア」
楽しげに歩く一人と一匹を、さあさあと降り注ぐ雨が、優しく包み込んでいた。
(半袖)
暑くないの?
台所から顔を覗かせ、持っていたおたまで私の着ている服を指す。フローリングの廊下に点々と落ちたスープを見て、思わず眉間にシワを寄せる。
——昨日よりは最高気温低いし。日焼けしたくないし。これでいいよ。
——ああ、そう。
大雑把で余計なことを気にしない母は、それ以上何も聞かず、コンロのそばに戻って行った。母のその性格はたまに私のストレスの原因だが、私の行動にそこまで干渉しない点については、正直助かっている。
朝のショートホームルームで、登校し、整列した生徒たちを、一番後ろの席から眺める。真っ白でサラサラとした布地から、少し日に焼けた肌があらわになっている。涼しげに雫を流した腕が、長い監禁から解き放たれたように、自由を満喫している。
半袖だ。
真夏の蒸し暑さを拭い去るように、生徒たちは白い歯をみせて、青空のように爽やかに笑う。
ねえ、長袖で暑くないの? もうみんな、半袖だよ。
と、トモダチ、は言う。
——うーん、まあ、暑いんだけど。このブラウス、思ったより薄いから。そんなに暑くはないよ。
——へえ、そっかあ。ねえ、明日は半袖着て来なよ。
——なんで。
——なんでって…だって、みんな半袖だし、集団のなかで一人だけって、おかしいじゃん?
別に、一人だけが嫌とか、みんなと一緒がいい、とは思わない。やんわり断ってから、次の授業の準備を始めた。廊下でヒソヒソと話をしているトモダチ、が、 協調性ない〜 と笑っていたのは、聞いていないふりをした。
午後の初めは、体育の授業だった。太陽が高く昇り、熱い光が降り注ぐ。野外授業だったこともあり、熱中症対策として、半袖・短パン推奨で授業を行うことになった。
——おい、そこの女子、長袖脱げ。
私は脱ぎたくはなかったので、はい、と返事をしつつ、そのまま過ごした。
放課後、先ほどの体育の先生に呼び出された。教師が言ったことは無視せず、守れ。だそうだ。
——少し、寒かったんです。次回も着ていてもいいですか。
——ハア、さっきも言っただろう。教師が言ったことは、絶対だ。どうせ、日焼けしたくないーとか、そういう理由だろう。寒かっただなんて、具合でも悪くない限り、ありえない。嘘をついたな。…お前の評価、少し下げておくから。お前の行動一つ一つが、俺からの評価につながってること、覚えておけよ。
空には少し雲がかかり、家に帰る頃には、夕焼けが汚い色に染まっていた。こびりつくような湿気が鬱陶しい。シャワーでも浴びてしまおう。そう思い、台所の奥にある風呂場へ向かう。床に残っていたスープの油が足の裏について、気持ち悪かった。
浴室にある、大きな鏡の前に立つ。
これを見れば、あいつらは私をほんの少しでもわかってくれるだろうか。
気持ち悪がらずに、怖がらずに、そのままで、私を受け入れてくれるだろうか。
半袖で誰かの前に立つ自分を想像して、口角が、歪んで上がる。そんなことできてたら、今、こんな気持ちになっていないのに。
ボロボロになった腕は、今日も無意識に、小さな銀色に伸びる。涙の代わりに流したものは、胴を伝い、足を伝い、排水口のヘドロに溶けた。
(一年後)
一年後。
君は暗闇の中で一人、瞼を開けます。狭くていた窮屈で、息苦しい。でも、とてもあたたかい、そんな場所です。
ほら、思いきって手を、足を、伸ばしてみましょう。あなたが思っていたよりも、とても柔らかい、薄い壁です。
——聞こえますか? 壁の外で、あなたの大切な人が、嬉しそうに笑っていますよ。
八年後。
あなたは小さな体にはとても見合わない、大きなランドセルを背負って、目をきらきらと輝かせているのでしょう。でも、少しだけ、不安に襲われる時があります。
大丈夫です。あなたはあなたが思っているよりも、賢くて、強い子です。あなたのその眼差しは、どんなに暗い、苦しい道も、明るく照らすことができます。
安心してください。どうしても辛くて、涙が溢れ出しそうな時には、私が必ず後ろにいます。恥ずかしがらずに、背中を預けてください。
でも、振り向いてはいけません。辛いこと、苦しいことから、目を背けてはいけません。大丈夫。その時はきっと、私も一緒です。
その大きなランドセルが、幸せな思い出でいっぱいになることを、心から願っています。
何年も、何年も、何年も経って、あなたは私の手が届かないところにまでいってしまうのでしょう。たくさんの、色とりどりの思い出を背負ったあなたの背中は、わたしの支えが要らなくなるくらい、大きく、たくましくなりました。
それとは裏腹に、私の体はあなたよりもずっと弱く、小さくなってしまいました。もう、あなたには追いつけない。それでも、離れたところからでも、あなたを応援して見せますから。
どうか、私があなたを置いていってしまうこと。お許しください。わがままですが、その時は、あなたの目からこぼれる涙よりも、傷ついた心が癒やされ、あたたかく包まれるような笑顔が見たいです。
いつかあなたが私と同じように、永遠に歩みを止める時。あなたの周りが幸せで溢れていますように。
最後の、お願いです。
一年後。
あなたの、儚げで可愛らしい、それでいて、元気いっぱいな産声を。
私の腕の中で、聞かせてください。
(君と出逢ってから、私は・・・)
私の人生の一部に、「君」という存在が組み込まれ ただけ。ただ、それだけのことのはずだった。
ものとか、道端の石ころとか、ただ通りかかっただけの、知らない人とか。ほんのわずかな時間視界に入っただけで、心に残らないような。
そんな存在だったら、どれほど良かったか。
あの日、初めて君と出逢ったあの場所で、私は今も君を探している。もう逢えないとわかっていながら、何度も何度も、この場所を訪れた。
一本の電柱の周りが、沢山の花束と、飲み物の缶と、君のことを知らない、沢山の人の想いで溢れている。それは、日が経つにつれ、だんだんと褪せていったけれど。
私は、遂に何もなくなったその場所に—君の最期の場所に、今日も一輪の花を飾る。
やっぱりここじゃ、君に逢えない。
君のおかげで変わらずにいられた私の命は、君に出逢って変わってしまった私の心によって、殺されるだろう。君と同じ苦しみを味わって。君と同じ痛みを知って。
そしてまた、私は、タイヤの跡が残るアスファルトの道路に飛び出した。
「———危ない…!」
聞こえた声は、あの日の記憶か、それとも…。
そんなことを考える間もなく、私の思考はそこで途絶えた。
目覚めた先が、君と同じ世界であることを願って