(半袖)
暑くないの?
台所から顔を覗かせ、持っていたおたまで私の着ている服を指す。フローリングの廊下に点々と落ちたスープを見て、思わず眉間にシワを寄せる。
——昨日よりは最高気温低いし。日焼けしたくないし。これでいいよ。
——ああ、そう。
大雑把で余計なことを気にしない母は、それ以上何も聞かず、コンロのそばに戻って行った。母のその性格はたまに私のストレスの原因だが、私の行動にそこまで干渉しない点については、正直助かっている。
朝のショートホームルームで、登校し、整列した生徒たちを、一番後ろの席から眺める。真っ白でサラサラとした布地から、少し日に焼けた肌があらわになっている。涼しげに雫を流した腕が、長い監禁から解き放たれたように、自由を満喫している。
半袖だ。
真夏の蒸し暑さを拭い去るように、生徒たちは白い歯をみせて、青空のように爽やかに笑う。
ねえ、長袖で暑くないの? もうみんな、半袖だよ。
と、トモダチ、は言う。
——うーん、まあ、暑いんだけど。このブラウス、思ったより薄いから。そんなに暑くはないよ。
——へえ、そっかあ。ねえ、明日は半袖着て来なよ。
——なんで。
——なんでって…だって、みんな半袖だし、集団のなかで一人だけって、おかしいじゃん?
別に、一人だけが嫌とか、みんなと一緒がいい、とは思わない。やんわり断ってから、次の授業の準備を始めた。廊下でヒソヒソと話をしているトモダチ、が、 協調性ない〜 と笑っていたのは、聞いていないふりをした。
午後の初めは、体育の授業だった。太陽が高く昇り、熱い光が降り注ぐ。野外授業だったこともあり、熱中症対策として、半袖・短パン推奨で授業を行うことになった。
——おい、そこの女子、長袖脱げ。
私は脱ぎたくはなかったので、はい、と返事をしつつ、そのまま過ごした。
放課後、先ほどの体育の先生に呼び出された。教師が言ったことは無視せず、守れ。だそうだ。
——少し、寒かったんです。次回も着ていてもいいですか。
——ハア、さっきも言っただろう。教師が言ったことは、絶対だ。どうせ、日焼けしたくないーとか、そういう理由だろう。寒かっただなんて、具合でも悪くない限り、ありえない。嘘をついたな。…お前の評価、少し下げておくから。お前の行動一つ一つが、俺からの評価につながってること、覚えておけよ。
空には少し雲がかかり、家に帰る頃には、夕焼けが汚い色に染まっていた。こびりつくような湿気が鬱陶しい。シャワーでも浴びてしまおう。そう思い、台所の奥にある風呂場へ向かう。床に残っていたスープの油が足の裏について、気持ち悪かった。
浴室にある、大きな鏡の前に立つ。
これを見れば、あいつらは私をほんの少しでもわかってくれるだろうか。
気持ち悪がらずに、怖がらずに、そのままで、私を受け入れてくれるだろうか。
半袖で誰かの前に立つ自分を想像して、口角が、歪んで上がる。そんなことできてたら、今、こんな気持ちになっていないのに。
ボロボロになった腕は、今日も無意識に、小さな銀色に伸びる。涙の代わりに流したものは、胴を伝い、足を伝い、排水口のヘドロに溶けた。
5/29/2023, 10:08:42 AM