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(相合傘)

 「——ああ、うぅーん…どうしよ。」
 アスファルトに弾けて小さくなった雨の粒が、サーサーと音を鳴らす、静かな夜だった。僕の目の前で立ち止まった人間は湿った前髪をかき上げ、低く唸るように呟いた。
 真っ黒な瞳が、僕の体を何か汚い物でも見るかのように見回す。数秒そうしてから目を逸らして僕に背を向けた人間は、暗い空を見上げてぶつぶつと唸っている。
「ハア、鬱陶しいなあ、何もしないなら早くどっか行けよ。」
 ずっと黙っていた僕の、突然の声に驚いたのか、目の前の人間は目を丸くして振り返った。
 何人だっただろうか、僕の雨に濡れた姿に、興味を示した人間は。大丈夫?だの、かわいそうだの、いうだけ言って、結局何もせず立ち去る。その度にどれだけ自分が惨めに感じたことか。
 今回もまた、何事もなかったかのように、踵を返して立ち去るのだろう。期待なんかしても、意味ないか。
 そう思った時。僕の体に降りかかっていた雨が、突然止んだ。上を見上げて、暗い空と僕の瞳を隔てていたのは、透明なビニール傘だった。いつのまにか遠くなった人間の背中を見つめる。不意に、心から感情が溢れて、小さな声になった。
「———置いてかないで。」


 ピタリ、と足が止まってしまった。一瞬、ほんの一瞬だけ、寂しさに震えた声が、聞こえた気がした。聞き間違いかもしれない。でも。
 「…あーあ、飼わないって決めてたのになあ。」
 小走りで駆け寄ると、それは小さな身体を身軽に持ち上げて、一番大きな声を出した。
「…一緒に帰るか。」
抱き上げようとしたその時、雨でずぶ濡れのけむくじゃらはジタバタと、小さな足を動かしてみせた。
「元気だな、こりゃあ。」
仕方なく、諦めて、ダンボール箱に立てかけた傘を持ち上げる。歩き始めると真横についてくるそれに、思わず笑みがこぼれた。
「…ふふ、相合傘だね。」
「ニャア」
 楽しげに歩く一人と一匹を、さあさあと降り注ぐ雨が、優しく包み込んでいた。

6/20/2023, 7:31:19 AM