【理想のあなた】
理想はいくらでも妥協できる。
だからこそ、いくらでも追い求めなければならない。
理想を求めるほどほどあなたらしくなる。
【別れ】
その夜、彼女はやけに静かだった。
恋愛映画を観ながらポップコーンをつまんでいる。私は一つ口に入れながら言った。
「愛し合っているのに別れなきゃいけないなんて、悲しいよね」
彼女は「うん、でも」と言いかけて黙った。私に肩を寄せながら視線はテレビから離さなかった。
映画が終わる頃には雨が降っていた。
部屋の電気を消した後、彼女は中々寝ようとしなかった。静寂の中で、私の名前を何度も呼ぶ。
「こっち向いて」
振り返ると悲しそうに笑っていた。
「映画に引っ張られすぎ」
私は冗談めかして、彼女の頬をつついた。彼女は無言になり、心地よい雨の音が間をつなぐ。
彼女は無言のまま、唇を重ねてきた。壊れ物を扱うように私を包み込まれた。彼女は私の心拍数を数えるように静かになった。
私も彼女の心音を聞こうとした途端、それに気づいたのか彼女は痛いほど優しい声で名前を呼ぶ。
「大好き」
泣きそうな震えた声が鼓膜を震わす。
「知ってる」
私は微睡みの中で答えた。その瞬間、抱きしめている力は追い詰められているように感じた。輪郭がなくなったまま、眠りに落ちた。
目を覚ますと、やけに体が冷えていた。雨のせいだろうか。窓の外に目をやろうとすると、隣に誰もいないことに気付いた。気配も何も感じなかった。私は慌ててスマホを見ると、そこには簡潔な通知だけが残っていた。
『ごめん。』
『恋物語』
輝かしい朝日と、優雅な目覚ましの音で体を起こす。彼女はもう起きているようだ。
洗面所へ行き顔を洗ってから、リビングで朝食を食べる。いつものルーティンだ。ダイニングテーブルに座りながら、窓の外をぼーっと眺めている彼女の姿があった。朝が弱いらしい。だから、朝食はいつも僕が作っているのだ。
「今日も可愛いね」
キッチンで彼女を後ろ姿で確認しながら、二人分のトーストを焼いて、コーヒーを淹れる。
「はい、朝ごはん」
彼女は庭にいる小鳥たちを観察しているようだ。朝食を一緒に食べながら、おしゃべりをする。
新作ゲームの話。
昨日見たアニメの話。
駅前に新しくできたお店の話。
彼女は相変わらず口数が少ないが、僕はその静かな会話が好きだ。
朝食を食べ終え、支度をする。
「じゃあ、行ってきます」
『sweet memories』
エステル特有の甘い香りが実験室に漂っている。
「本当に果物みたいな匂いなんだね」
彼女が少し笑いながら言った。
「加水分解するのもったいないね」
私はためらいながら、試験管に水酸化ナトリウムを入れる。静かな液面が微かに揺れた。
「…本当に匂いが消えちゃった」
「そうだね」
鼻腔の感覚は変わらないが、実験室は無機質な空気へと変化していた。
けれど、甘い匂いだけは記憶の中でいつまでも消えなかった。
『愛があれば何でもできる?』
帰りのホームルームが終わってからしばらく経ち、人気のなくなった廊下で凛がそう呟いた。
「何でもは無理だよ。」
屈託なく心陽は返した。
「そっか。」
残念そうな様子で凛は相槌を打った。
階段に差し掛かり、一つずつ足音が響く。
「じゃあさ。」
凛は足元に意識を向けながら、そして心陽の心を覗くように言った。
「愛って何のためにあるのかな?」
心陽は少し考えて、照れながら答えた。
「きっと、好きな人と幸せを共有するためだよ。」
「共有…。」
初めて触れる言葉のように、肯定も否定もせずに発した。
階段を降り終えて、二人は下駄箱へ向かった。
凛は一足の靴を眺めながら口を開いた。
「愛ってさ、共有するためのものじゃないと思うんだよね。」
「え?」
思わぬ返答に頭が回らず、心陽は声が漏れる。
「お互いがお互いの愛で傷つけ合うのって幸せじゃない?」
息を呑む心陽を置いて、凛は昇降口を飛び出して言い放った。
「私は心陽の愛に壊されてみたいな。」
その様子は、西陽に反射し美しく燐光を放っているようだった。しかし、その光に潜む毒に、心は静かに蝕まれていった。