記憶の中の夏はいつもキラキラと輝いているのです。
濃くハッキリとした鮮やかな青空も、
真っ白でモクモクしている入道雲も、
ザァザァとした夕立ちやゴロゴロぴかぴかな雷も、
幾度の夏を過ごしたっていつでも綺麗なのです。
夏が終わって秋になり冬が来て春を迎える。
そうしてまた夏がやって来る。
季節は巡っても私の記憶の中の夏はずっとキラキラが増え続けるのです。
ずっと終わることのない大切な記憶を宝箱にたくさん詰め込むのです。
15年前。
君は私たちの誰にも何も告げずにいなくなってしまった。
そのとき私は君と友人になって5年ほどだった。
君と私は誕生日が同じだった。
年齢は私のほうが1つ上だったけど、知り合ってすぐから意気投合した。
本当にとても気が合って、よくふたりで食事も行ったし泊りがけで出かけたりもした。
周囲からも君と私は容姿の特徴は真逆の双子のように認識されていた。
君が交際相手の男性が変わるたびに、少しずつ私や他の友人たちと会うことが減り、気が付けばみんな音信不通になってしまった。
その当時のSNSで君が別の地で生活していることはなんとかわかったけれど、それも数年で途絶えた。
あれから15年。
君はいま、健やかで幸せに暮らしているのだろうか。
私は君と過した3倍の年月が過ぎたいまも、君と友人として過したあの頃を何度も思い出している。
空を見上げるたびにいつも願ってしまう。
この空の見えるどこかにいる君も、私や私たちを思い出して懐かしんでくれてたら嬉しいなと、そう願ってしまうんだ。
人はそれが過ぎてしまえば名前を付けられなくなるのです。
過ぎたるは及ばざるが如し、とはよく言ったものです。
驚きも、悲しみも。
歓喜も、感動も。
人は自身の中でそれが過ぎてしまうと無言になってしまうのです。
せいぜいが「あ…」とか「え…」なんて、
間抜けな平仮名一文字になってしまうものなのです。
そうして過ぎてしまったものを一度受け止めて、
だんだんと冷静になってきて名前が付くのです。
そのときのことを書き残すときになってようやく、
過ぎてしまったそれらの可視化に「!」を付けてみるのでしょう。
記号である「!」で適切に表せてないことはわかっていても、
人は書き残すときに「!」以外はしっくりこないのです。
たくさんのものを一緒に見てきたんだ。
ほんとうにたくさん。
四季が巡るなかを一緒に出かけて、
山も、川も、海も、空も、
街並みも、食べ物も、
ほんとうにたくさん見てきたんだ。
同じものを一緒に見ていたけれど、
君にはどんな風に見えていたのだろうか。
君と行った場所の近くにいるからと立ち寄ってみたら、
あんなに色鮮やかだったはずのものが、
なんだかくすんで色がないように見えたんだ。
僕たちはもう同じものを一緒に見ることはできないけれど、
どうか君が見るものはこれからも色鮮やかであってほしい。
僕の身勝手さでこれからも君と見る資格を手放してしまったのに、
僕は今になって君が伝えてくれた景色や思い出がとても美しく楽しかったことを、
まざまざと思い出してしまうんだ。
君は僕と一緒ではないときに見たものも、
まるで僕も一緒にいたのかと思えるくらい鮮やかに情景が浮かぶように伝えてくれてたんだ。
僕と同じものを見ていてもきっと君の目に映るすべては、
僕では気付けないものがたくさんあるのだろう。
今になって思うんだ。
自分から手放してしまったのに、
これから君の目に映るすべてのものを何ひとつ知ることができないという現実に、
とても後悔しているんだ。
それでも君の目に映るすべてのものが、
これからも美しくあってほしいと、
願わずにはいられない。
わたしの心のなかに
ぴったり当てはまるものがないのです。
まるで絵の具を混ぜてるときのように
ほんとうにいろいろな感情が生まれては混ざり
ぜんぶひとつになってしまうのです。
でもいろいろなものが混ざりすぎて
もともとの感情がどれなのかもわからなくなり
混ざったものにぴったりなものもわからないのです。
どんな本を読んでも、辞書をくまなく読んでみても
この混ざったものに似たものすら見つからないのです。