【意味のないこと】
「あぁ〜、なくなってるぅ〜」
同僚の熊谷が急に大声を上げたので、周りにいた連中の視線が一気に熊谷に集中した。
ここは、とある小さな地方のラジオ局。クマこと熊谷はここの社員であり、パーソナリティーとして深夜の生番組番組を担当している。
「クマさん、おっちょこちょいにも程がありますよ。今度はいったい何を無くしたんですか?」
3ヶ月前に配属された新人ADの犬飼が、皆が思ったであろうことを代弁してくれた。
「なくしたんじゃなくて、なくなってんの。ほれ、今日健康診断の問診票もらったろ?あれ見てみ」
そう言うと熊谷は1枚の紙をヒラヒラと見せながら、ある部分を指差した。
「ここ! ここにあった性別欄が今回なくなってんの。何か革命的じゃね?」
「っていうかクマさん、よく気づきましたよねぇ。性別欄なんて惰性で書くもんだから、あってもなくても意味なくないですか?俺、クマさんに言われるまで全っ然気づかなかったし」
犬飼はそう言いながら、あらためて問診票を確認している。熊谷はその様子を見ながら、そりゃそうだろうなぁ…と小声で呟いた後、こう言った。
「俺みたいに、持って生まれた性別と今現在の姿にギャップのある奴にとっては結構ありがたいもんだよ。毎回、ビミョーに悩む項目だったんだから」
「えっ⁉︎ クマさんって、男性だとばっか思ってたけど違うんですか?」
「あぁ、そっか。犬飼はここに来てまだ3か月だっけ。じゃあ、まだ知らないことも多いよなぁ」
熊谷は、動揺を隠せない犬飼の姿を面白そうにニヤニヤ眺めている。他の連中は皆、番組の立ち上げ当初から携わっているので、熊谷がどういう人物であるかある程度は承知している。番組の聴取者には性別不詳ということにしているので、まだ付き合いの浅い犬飼が知らないのも当然だ。
「ま、いいじゃんどっちでも。俺は俺なんだから、今までと何ら変わりないよ」
熊谷は、ニコニコしながら犬飼の頭をポンポンと触った。彼は「俺、犬じゃないんですけど…」と、多少ふてくされてはいたものの
「そうですよね。今更どっちだって何も変わらないですよね」
と最終的には納得し、皆と同じように自分の持ち場へと戻っていった。
熊谷も今日の放送の準備に取り掛かろうとして、ふと自分に向けられた視線を感じていた。番組のメインディレクターである、八田の姿があった。
「何、八っつぁん。何か変更あった?」
熊谷が八田の方へ歩み寄ると、八田は熊谷の耳元でこそっと呟いた。
「俺は意味あると思ってるけどな、性別」
どゆこと? と熊谷が聞き返すと、八田はめったに見せない笑みを見せた。
「だって、お前が男性だったらこないだ提出した婚姻届、受理されなかっただろ?」
たしかにね、と熊谷も思わず笑った。2人が家族になったことは当分、ここだけの話だ。
【あなたとわたし】
あまり知られていないことだけど、この世の役目を終えて天へと昇った者の中には、天界の名を受けてあらゆる気象の分野を司る者がいる。
例えば太陽を司っているヒナタは、天界が定める年間計画に基づいて日照時間を調整する。そして、雨を司る俺はこれまた天界が定める年間計画に基づいて降水量を調整している。
1度は天寿を全うしたはずのヒナタと俺だったが、なぜかまたこの世で出会ってしまった。しかも、なぜかお互い高校生になっているのだから気恥ずかしいことこの上ない。
ただ、太陽と雨をそれぞれ司る者同士が近くにいると打ち合わせがしやすい。天界の年間計画は晴れの日と雨の日がそれぞれ定められいるが、日照時間や降水量は1年間のトータルしか決められていない。だから、あまり雨を降らせてほしくないときにはヒナタが事前に俺に依頼をしてくる。
「ねぇ、ミナカミ。お願い。お〜ね〜が〜い!明日、少しの間だけ雨を降らせないようにしてほしいの」
「お〜ね〜が〜いって、いったい今年何度目だと思ってんだ、ヒナタ。またここで雨量を抑えたら、年の終わりに帳尻合わせで災害級の大雨を降らせなきゃいけなくなるじゃんか」
「それは困る!…けど、明日はどうしても降らせてほしくないの。放課後の数時間だけでいいから」
以前、ヒナタがお願いしてきたのは妹の中学受験のときだった。その前は、弟が野球の試合に出場するとき。両親の結婚記念日というときもあった。そのたびに、俺はぶつぶつ文句を言いながらも降水量を限りなく最小限に近づける努力をしていた。
ただ今回は、その時間帯だけどうしても雨を降らせないでくれという。ヒナタとは長いつきあいになるが、そんな依頼は初めてだ。
「放課後だけって、今回は何が理由なんだよ」
ヒナタはしばらく黙っていたが、意を決したように口を開いた。
「ツカサがね、生まれて初めて好きな人に告白するの」
「ツカサって、おまえがこの世に戻ってきて1番最初にできた友達の、あのツカサ?」
「そう、そのツカサがね、ずっと想い続けている人に告白したいから力を貸して欲しいって。私には日を照らすことしかできないけど、彼女の力になってあげたいの」
いや、むしろ雨を降らせない俺の方が彼女の力になるんじゃね? と俺は思ったが、親友の一世一代の決心を何としても後押ししたいヒナタの真剣な表情を前にして、何も言えなくなってしまった。
「…15時から17時まで。それ以上はムリ」
「えっ、いいの? うわぁ〜、ありがとぉ〜、ミナカミ!」
「うわっ!急に飛びつくな‼︎」
こういうことを無邪気にしてくるのが、ヒナタのいいところでもあり悪いところでもある。毎回、何だかんだいいように振り回される俺の身にもなってほしいもんだ。
それにしても、今までヒナタは1度も自分のために願ったことはない。もしもヒナタがこの先誰かに告白するとしたら、そのときはまた俺に雨を降らせないようにとお願いしてくるんだろうか。
何だかモヤっとした気持ちになりながら、俺は天界から渡されたスケジュール帳を取り出し、明日の欄に「15-17 降水量ゼロ」と書き込んだ。
【もう一つの物語】
高校生のころ、僕には居場所がなかった。
学校では、クラスメイトに執拗にからかわれたり持ち物を隠されたりした。僕にとっては、およそ居心地の良い場所ではなかった。
家に帰ると、その事情をまったく知らない家族が楽しそうに談笑している。一家団欒の輪の中に入りたくても入れず、すぐに自分の部屋に籠ってしまう日常だった。
ある日、どうしても眠れなくてラジオをつけてみた。いろんな番組をザッピングする中、気になる言葉が耳に入ってきた。
「がんばってもいいし、がんばらなくてもいいじゃない。前向きでも後ろ向きでも、どっちでもいいんだよ。明日も明後日もここで3時間くらい話してるから、よかったら好きな時に聴きにおいでよ」
それは、月曜から金曜の深夜2時から5時まで1人のパーソナリティが進行している番組だった。おそらくは番組に寄せられたメールへの言葉だったんだろうけれど、それはまるで僕に向けて話してくれたように思えた。
その日から、僕はその番組を欠かさず聴くようになった。次の日の朝、起きるのは辛いけど番組を聴く前より心は少しだけ軽くなっていた。逆に、学校で起こる問題は日に日に増していた。先生側も、寡黙で暗い僕にも原因があるかのような口ぶりで、自分ではもうどうしようもなくなっていた。
僕は、生まれた初めてラジオ番組にメールを送った。この番組が心の支えになっていること、今はどこにも自分の居場所がないこと、生きてるのが辛いけど番組を聴きたくて生きている、でも辛い、どうすればいいのか…とにかく今、自分が思っていることを全て書き連ねて伝えたい。そんな気持ちだった。
その日の夜、いつものように番組を聴いていると何処かで聞き覚えのあるラジオネームが呼ばれた。あの、僕の拙いメールを放送中に紹介してくれたのだ。しかも、今度こそ本当に僕に向けて、あのパーソナリティさんが語ってくれたのだ。
「この番組を聴くためにどうか生きていて欲しい。君が生きるためにここが大切な場所だというのなら、僕はそういう場所で在り続けるように精一杯努力する。君にはその道のりを見届けて、いや、聴き届けてほしいんだ」
涙が止まらなかった。こんなふうに、僕の気持ちを真正面から受け止めてくれる人は、家庭にも学校にも周りのどこにもいなかった。そして、見ず知らずの僕のために「精一杯努力する」なんて言ってくれる人は、この先もう現れることはないだろう。
この日、僕は誓った。たとえ辛いことが多くても、この先もずっとずっとこの番組を聴くために生きていく。
そしていつか、あのパーソナリティさんに直接会ってお礼の言葉と、いつか僕もラジオの「そちら側の人」になって、あなたと一緒に番組を作りたいって夢を伝えるんだ。
※2023年9月3日付【心の灯火】のもう一つの物語です
【行かないで】
これはまだ、僕が幼かった頃の話。
僕の父は、大学の講師をしていた。普通の会社勤めとは違うので、授業がない日は日中でも家にいることが多かった。そんなとき、たまに僕を連れて買い物に出かけることもあった。
ある日、ショッピングセンターに2人で出かけたときのこと。広い玩具売り場のすぐ横にスポーツ用品売り場があって、父の好きなゴルフアイテムも数多く並んでいた。しばらく2人で玩具を見ていたのだが、とうとう父も我慢ができなくなったらしい。
「いいか、サトシ。ちょっとだけ隣の売り場に行ってくるからな。すぐ戻るから、それまでここで待っているんだぞ」
父は僕の頭に手を置いてこう言った。
「うん、わかった‼︎」
僕は勢いよく返事をした。隣の売り場だし、すぐ戻ってきてくれるだろうと思っていたのだ。
ところが、父は一向に僕の元に戻ってくる気配がなかった。何か気になるものでもあったのだろうか。いつまで経っても父の姿が見えないことが、急に不安に思えてきた。
僕は、「わかった」と父に返事したことを激しく後悔した。もしもあのとき、「やだ、行かないで」と言っていたら今も一緒に玩具を見て楽しんでいただろう。
行かないで、行かないで、行かないで…想いを募らせた僕は、気がつけばたまらず叫んでいた。
「ちちうえぇぇぇぇぇ〜〜〜〜〜‼️」
いや、僕としてはいつものように父のことを呼んだ、ただそれだけのことだった。ただ、後に父は言った。あのときほど恥ずかしい思いをしたことはなかったと。
それ以降、「父上」「母上」だった両親の呼び名は「父さん」「母さん」へと変わった。父と一緒に出かけても、極力手を繋いで一緒にいてくれるようになったので「行かないで」と懇願する場面は2度となかった、
今日、僕がもうすぐ父親になることを父に伝えると、父はあのときと同じように僕の頭に手を置いてこう言った。
「いいか、サトシ…
我が子に『父上』と呼ばせるのだけは絶対にやめておけ」
【どこまでも続く青い空】
「何でこんなに空が青いんだよ…」
どこまでも続く青い空を見上げながら、俺は
思わず呟いた。頭の中は、今度提出する卒論のことで一杯だった。担当の教授からことごとくダメ出しをされ、何をどう書けばいいのか迷走していた。青い空を目の前にしても、まったく気持ちは晴れなかった。
「うわ〜、絵に描いたような逆恨みですねぇ〜、先輩」
ボソッと小声で言ったはずの一言を、たまたま隣にいた後輩のヒグチが耳にしていた。奴は、俺が教授にダメ出しされていたときにもたまたま同じ部屋にいて、事情をよく知っている。
「でも実際、教授のご指摘どおりに修正する方がより良い卒論になるんじゃないんですか?」
「うるさいな。良くなるかどうかは別として、つまらなくなるんだよ。卒論も俺も」
そう言いながら、俺は教授がダメ出し中に言ったある一言を思い出していた。
「う〜ん、君の文章は何というか…デッサン力のない抽象画のようですねぇ」
絶妙な言い回しだった。教授が提示した締切に何とか間に合わせた俺の論文は、資料を深く読み込むことなく感覚的な言い回しで体裁を整え、文字数だけを稼いだことがバレバレだった。だからといって、元々底の浅い文章の内容をより具体化したからといって、現在より良い論文になるとも思えなかった。
「僕は先輩の文章って好きですけどね。読んでると心が和むというか、感情の浮き沈みを穏やかにしてくれるというか…けど、それって卒論においては合ってないんでしょうね」
どうやら、ヒグチはヒグチなりに俺の文章を認めてくれていたらしい。ただ、今の言葉はあまりフォローになってはいないのだが。
俺は今、あの「デッサン力のない抽象画」にこれからどう手を加え、教授にその良さを伝えようかと頭を悩ませている。今だけは、あのどこまでも続く青い空がどうしても気に食わない。