木蘭

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【行かないで】

これはまだ、僕が幼かった頃の話。

僕の父は、大学の講師をしていた。普通の会社勤めとは違うので、授業がない日は日中でも家にいることが多かった。そんなとき、たまに僕を連れて買い物に出かけることもあった。

ある日、ショッピングセンターに2人で出かけたときのこと。広い玩具売り場のすぐ横にスポーツ用品売り場があって、父の好きなゴルフアイテムも数多く並んでいた。しばらく2人で玩具を見ていたのだが、とうとう父も我慢ができなくなったらしい。

「いいか、サトシ。ちょっとだけ隣の売り場に行ってくるからな。すぐ戻るから、それまでここで待っているんだぞ」

父は僕の頭に手を置いてこう言った。

「うん、わかった‼︎」

僕は勢いよく返事をした。隣の売り場だし、すぐ戻ってきてくれるだろうと思っていたのだ。

ところが、父は一向に僕の元に戻ってくる気配がなかった。何か気になるものでもあったのだろうか。いつまで経っても父の姿が見えないことが、急に不安に思えてきた。

僕は、「わかった」と父に返事したことを激しく後悔した。もしもあのとき、「やだ、行かないで」と言っていたら今も一緒に玩具を見て楽しんでいただろう。

行かないで、行かないで、行かないで…想いを募らせた僕は、気がつけばたまらず叫んでいた。

「ちちうえぇぇぇぇぇ〜〜〜〜〜‼️」

いや、僕としてはいつものように父のことを呼んだ、ただそれだけのことだった。ただ、後に父は言った。あのときほど恥ずかしい思いをしたことはなかったと。

それ以降、「父上」「母上」だった両親の呼び名は「父さん」「母さん」へと変わった。父と一緒に出かけても、極力手を繋いで一緒にいてくれるようになったので「行かないで」と懇願する場面は2度となかった、

今日、僕がもうすぐ父親になることを父に伝えると、父はあのときと同じように僕の頭に手を置いてこう言った。

「いいか、サトシ…


我が子に『父上』と呼ばせるのだけは絶対にやめておけ」

10/25/2023, 9:16:13 AM