【声が枯れるまで】
「声が枯れるまで」って表現がある。
私はそれを経験したことはないし、
この先も経験することができない。
私は、声そのものを出せないのだ。
声が出なくて不便だなぁ、と思う場面がなくはない。ただ、生まれつきなので、声を出さないことが当たり前の生活を送ってきた。これから先も声を出したいと思うようなことはないだろう…と、昨日まではそう思っていた。
今日は、我が子の初めての運動会。決して足が速いわけではないが、昨日も夜遅くまでまでパパと一緒に練習していたのを知っている。私は、手作りのキャラ弁当で精一杯の応援の気持ちを表した。
そして、我が子が走る番がやってきた。
パンッと乾いたピストルの音とともに、幼い子どもたちが一斉に駆け出す。うちの子も、先頭の子を懸命に追いかけている。
「がんばれー、がんばれー‼︎」
どの子の親も、必死で声を振り絞る。
でも、私にはそれができない。
声が枯れるまで子どもを応援することに、
こんなにも憧れる日が来るなんて…
気がつけば、我が子は1等章の証をつけていた。パパは「よくがんばったなぁ〜」とニコニコして、走った本人よりも上機嫌だ。
せめて、ギュッと抱きしめて「おめでとう」の気持ちを伝えようとしたそのとき、
「ぼく、おかあさんのがんばれ、きいたよ」
え?
「はしってるとき、おかあさんがてをふってがんばれ〜って。すごくすごくうれしかったよ‼︎」
…いつの間に、この子はこんなにも優しい子に育ったのだろう。自分でも聞くことのできない声を、その幼くて小さな心が汲み取っていてくれたのだ。
「だからぼく、いっとうしょうになれたんだ。おかあさん、ありがとう」
私は、我が子を力一杯抱きしめた。
「いたいっ、いたいよぉ、おかあさん」
子どもが思わず声をあげるほどだったが、それでも力を緩めることはできなかった。
今日という日が、初めて私が「声援」をおくった記念の日になった。
【カーテン】
夜、少し肌寒くなった気がして目が覚めた。
すぐ横で、薄青いカーテンが時折ヒラヒラとしている。どうやら、換気のために少しだけ開けておいた窓から風が入ってきたらしい。
ベッドから起きあがろうとして、自分の寝ていた場所がひどく左に寄っていたことに気がついた。十年前からのクセが、未だに抜けていない。あの頃、右隣に必ずいてくれた人はもういない。二度とは会えない人と、寄り添っているような感覚がないと眠れない。そして毎日、目が覚めては現実に引き戻される。
あの薄青いカーテンは、あの人と二人で選んだものだ。この部屋で、ずっとずっと一緒にいられると思っていた。
ひとりぼっちを受け入れきれない今の自分と、夜風に揺れるカーテンとが重なる。揺れ動いて揺れ動いて、いつか一人になった自分を本当に受け入れられる日は来るのだろうか。そんな思いの中、またベッドの左端に身体を寄せてしまう自分がいた。
【踊りませんか?】
いや、そんなこと言われなくても俺たちは毎日毎日踊ってんだって。
今日も、急に欠員が出ちゃってね。そんな日に限って、想定外のことが立て続けに起こるもんだから、いつもどおりってわけにはいかなくて焦りに焦っちゃって。
だからさ、今日に限らずそうなんだけど
「てんてこ舞い、てんてこ舞い」ってね。
いつも、心ん中じゃ踊ってんだよ。
でも、そんなときほど終わった後は「いやぁ、大変だったなぁ〜」って言いながら、いつの間にかその場にいる全員が笑ってんだ。
おかしいよな。さっきまで、あんなにみんなイラついて荒れてたのが嘘みたいだ。「何だかんだいろいろあったけど、まぁ楽しかったよな」みたいな空気感しか残ってない。
「てんてこ舞い、てんてこ舞い」って心ん中はバタバタしながら、それでもその状況をそれなりに楽しんでやってくんだ。それが、俺たちが誇りに思う日々の仕事だ。これがまさに「心躍る」ってやつなんだろうな。
さぁ、明日も心躍らせていきますか!
【たそがれ】
夕暮れ時を「たそがれ」と呼ぶようになったのは江戸時代よりも後のことだという。
「たそかれ(誰そ彼)」、つまり夕方薄暗くなる頃は人の顔の見分けがつきにくいので「誰だ、あれは?」と言ったのがその語源だと言われている。
今なら誰かとすれ違っても、私だとはわからないかもしれない。ついさっき、3年付き合った彼と別れた。私から切り出したが、その直後に今までの想い出が一気に押し寄せて感情が爆発しそうだった。彼の前では何とか平静を装っていたが、背を向けた瞬間から涙が止まらなかった。
この薄暗さが、私の救いになった。
今がたそがれ時で本当によかった。
【きっと明日も】
ホントは創作モノなんて書くはずじゃなかった。小説とかファンタジーは心底苦手だったし、この先も縁遠いものなんだろうって勝手に思ってた。
エッセイとかコラムとか、ごくごく身近な「ホントの話」を書いていくつもりだった。それなのに、どうしても書くことのできない「ホントの話」ができてしまった。
本気であなたに恋をしてしまった。
現実には決して成就することがない想いだから、本来であれば消し去らなければならない。頭ではわかっていたけれど、気持ちはいつまでたっても変わることはなかった。それどころか、抜けないトゲのようにじんわりとした痛みとともにいつまでも心の真ん中に突き刺さってていた。
現実でダメでも、創作ならネタになる。むしろ、恋すれば恋するほどストーリーが溢れ出す。だから、あれほど敬遠していた創作の世界に足を踏み入れてしまった。
誰にも遠慮することなく、好きな人のことを好きなだけ考えられる世界があるってそれだけでも幸福なのに、そこから派生して新たな物語が生まれるなんて、「ホントの話」だけを書いていた頃には考えられなかった。
きっと明日も、私はあなたの笑顔を思い浮かべながら新たな物語を綴っていく。その先もずっとずっと、この恋を架空のストーリーに重ね合わせていくのだろう。