【突然の別れ】
いつかこんな日が来ることはわかっていた。でも、それはもうちょっと先のことだと思っていた。さよならも告げず、急に旅立ってしまうなんて。
いつの間にか、一番近い存在になっていた。手を伸ばせば、いつでも触れることができた。そばにいるのが当たり前になって、ほんの少しの間でも姿が見えないと、また会えるのだろうかとたまらなく不安になった。
きみがいなくなったこれからの日々を、どう過ごせばいいんだろう。まだしばらくは、きみと過ごしたあの場所で、よく似た面影を探してしまうだろう。季節が巡り、いつかまた出逢うかもしれないその日まで…
さようなら、期間限定メニュー
【恋物語】
恋をしたから小説家になった、
なんて言ったらあなたは笑うでしょうか。
なかなか眠りにつけない10代の頃、私の傍にはいつもラジオがありました。ボリュームは、いつも絞り気味。流れてくる声も音楽も、微かに耳に入る程度で聴くうちに、いつの間にか眠ってしまうのが日常でした。
その日もやっぱり眠れなくて、いろんな番組をちょっとずつ聴いていた午前2時。
「はじめまして。今日から始まるこの番組、よかったら最後までおつきあいください!」
それから午前5時までの3時間、私はいつもよりボリュームを上げ、彼の声に耳を傾けていました。何故かわからないけれど、彼の声は私の心の奥まで真っ直ぐ届く特別な声に感じました。
8年間続いた番組が終了する日、私は初めて番組宛にメールを送りました。番組内で読まれることなど期待していませんでしたが、あなたは番組の冒頭でそのメールを取り上げてくれました。
「明日、世界がなくなるとしたら何を願いますか?」
あなたの願いどおり、その日の放送は無事終了しました。私はというと、このままじゃ心臓がもたないというくらいドキドキして、ますます眠れなくなってしまったことを覚えています。
あなたに感じた特別な感情をどう表現すればいいんだろう。私は、架空のラジオ番組と登場人物でストーリーを創りました。それが、小説家としての私のデビュー作。そして、少しずつ自分の作品が知られるようになってきた今、あなたがパーソナリティを務めるラジオ番組にゲストとして呼んでいただけるとは。
明日、あなたに会ったら何から話そう?
緊張しすぎて言葉が出ないかもしれない。
でも、どうしてもこれだけは伝えなくちゃ。
「あなたに恋して小説家になれました」って。
【真夜中】
「かぁしゃ〜〜〜〜〜ん‼︎」
真夜中、眠っているはずの息子が大きな声で叫ぶ。夢でも見ていたんだろうか。幼稚園に通うようになってから、時々こういう夜がある。
「ハヤト、どうした?」
俺は、息子の背中をさすりながら名前を呼ぶ。
「かぁしゃんは? かぁしゃんはどこ?」
息子は真っ暗な部屋の中、手探りで自分の母の行方を探そうとする。でも、彼の探す「かぁしゃん」はここにはいない。
ハヤトが生まれる前から闘病を続けていた妻のチハヤは、2年前にこの世を去った。幼稚園に通う我が子の姿を、彼女は知らない。
だが、彼が生まれて1年が経ったころから彼女はあるものを作り始めた。菜の花とモンシロチョウの刺繍がついた弁当袋は、お世辞にも器用とはいえない彼女が作り上げたものだ。ハヤトが幼稚園に通うようになったときのためにと、時に自らの生命を削るように必死で仕上げていた。
「ハヤト、かぁしゃんはここだよ」
俺は、部屋の電気を点けて幼稚園バッグに入っている弁当袋を取り出してハヤトに渡した。ハヤトは愛おしそうにその袋を抱きしめ、「かぁしゃん…」と安心したように言った後、間もなく眠りについた。
チハヤ、君の愛の力は絶大だ。以前、夜遅くまでこの袋を作っていた君に「僕の愛があれば、君は何でもできる」って言ったのを覚えているかな。でも、君の命懸けで遺した愛情のおかげで、僕はハヤトのためなら何でもできる。おそらく、今日みたいな真夜中の光景はこの先何度もあるだろう。そのたびに、ハ君と僕がどれほどハヤトを愛しているか伝えて乗り越えていくつもりだ。
だから、これからも僕らのことを変わらず見守っていてほしいんだ。頼むよ、チハヤ。
【愛があれば何でもできる?】
愛があれば、何でもできる。少なくとも、今の私はそう思っている。愛する我が子のためならば、たとえ家庭科の成績が万年芳しくなかったこの私でも、幼稚園に持っていくお弁当袋くらいは手作りで用意してあげたい。
できるはずだ。いや、できなきゃいけない。なぜなら、私に残された時間はもうあまり長くはないから。
この子がおなかの中にいるとわかったとき、同時に判明したのは悪性の腫瘍があることだった。出産まで治療を止めたら、確実に病気は進行する。が、治療を優先させれば子どもは諦めなければならない。
子どもと私の生命、どちらも諦めたくない。
私は、主治医にそう伝えた。そして、一年前に長男を出産した。最近では食欲も体力もだいぶ落ちて、日中動ける時間も短くなってきた。
この子が幼稚園に通うころ、私が母として隣にいることは叶わないだろう。せめて、我が子を愛していた証を遺しておきたい。だから、この子が毎日使うであろうお弁当袋を作ろうと決めたのだ。
「まだ、起きてたの。もうそろそろ寝た方がいいよ」
夫は、やんわりこう言った。
「うん、あともう少しだけ」
私が続けようとすると、いつもは無理に止めることのない彼が、珍しく私の手に自分の両手を添えて作業を止めた。
「今日はもう、終わりにしよう」
「でも、もうちょっとだけやっておかないと間に合わないかもしれないから…」
私がそう言うと、彼はにっこり笑って首を横に振る。
「大丈夫、ちゃんとできるよ。それより、体力を消耗しすぎて明日動けなくなったら困るだろ。休めるときには、ちゃんと休まなきゃ」
そして、彼は私の耳元でこう囁いた。
「僕の愛があれば、君は何でもできるから」
ああ、そうか。そうなんだ。
この人もまた、私と同じ気持ちなんだ。彼の愛が続くかぎり、私の愛もこれから我が子へとつながっていくんだ。たとえ隣にいられない日がきても、私にはまだできることがある。
菜の花とモンシロチョウの刺繍を仕上げるのは、また明日にしよう。彼と私の愛情があれば、できないことはないのだから。
【後悔】
あっ、やべっ。傘忘れた。
いつものカバンになら、小さめの折り畳み傘が入ってたはずなのに。何で今日にかぎって、別のカバンを持ってきちゃったんだろう。
いわゆるゲリラ豪雨の最中、俺は己の行いを激しく後悔していた。そもそも、今朝の占いでラッキーアイテムが「日常使ってるものとは違うモノ」だなんて言うからだ。もっとも、そんな占いを鵜呑みにして以前使っていたカバンを久々に出してきた俺も俺だけど。
「あの、もしかして傘ないんですか?」
そう声をかけてきたのは、同僚の井上ちゃんだ。いつも明るく元気な彼女は、他部署からも人気がある。
「たしか、駅まで一緒ですよね。私の傘、結構大きいんでよかったら入っていきませんか?」
どうぞ、と彼女は笑顔で持っていた傘を差し出した。
「ありがとう、助かるよ」
さっきまでの後悔は一気に払拭された。
な〜んだ、結局あの占い当たってんじゃん。
明日のラッキーアイテム、何だろうなぁ。
そんなことを思いながら、駅までわずかな間の相合傘を楽しんだ。
【風に身をまかせ】
「ええか、コウキ。風に身を任せていれば、人生何とかなる。それでええ」
それが親父の口ぐせだった。
「人生には何度も何度も風が吹く。追い風のときもあれば、向かい風のときもある。そよ風みたいに爽やかに吹くこともあれば、台風みたいに強く激しく吹くこともある。そのときそのときで風の強さや方向を見極めて、自分の身を任せれば無駄な力を使わず生きられる」
その方が、無理することなく楽に楽しく生きられるというのが親父の主張だった。おかげで俺は、10代の前半で受賞した文学賞という「風に身をまかせ」、『作家 カワノコウキ』として現在に至っている。
「それで、そのお父様は今もご健在なんですか?」
それまで、俺の話を黙って聞いていた編集者の柏木が問いかけた。
「ああ、90過ぎだけど今も介護施設で暮らしてるよ。まぁもっとも、長い人生で風に吹かれすぎたせいか記憶もふっ飛んじまったみたいで、会うたび俺に「はじめまして、ご苦労さんです」って挨拶してくれるんだ」
「…悲しいですね」
「いいや、全然。むしろこっちも「はじめまして、お父さん。今日はよろしくお願いしますね」ってニコニコ挨拶して、毎回違う介護スタッフのフリしてるんだ。そのたびに、自分が書いてきた小説のキャラクターを演じてるから、作家稼業もなかなか役に立ってるよ」
「途中で気づかれませんか?」
「気づいてないと思うけどな。ただ、別れ際にいっつもあの口ぐせを言うんだ。「風に身を任せていれば、人生何とかなる」ってね」
「意外と、全部ご承知の上だったりして」
「そうだったら面白いな。そもそも、この言葉のおかげで俺は作家になれたようなもんだし」
すると、柏木は何かに気づいて「あぁ、そうか…」と呟いた後、俺にこう言った。
「もし、その言葉がなければ私と河野君はただの同級生のままだっだってことですよね。今、河野君と私が作家と編集者という関係でいられるのはお父様のおかげですよ。ありがたいことですね」
身ぃ任せなきゃよかったかな…と、俺は自らの人生の選択を若干後悔しつつ、この口うるさい編集者がすぐ横にいるから俺は未だに作家でいられるのかもしれない、とも思った。
誠に不本意だが、今日も俺の周りは良い風が吹いているようだ。