【おうち時間でやりたいこと】
「へー、『人気作家がおうち時間でやりたいこと』ですか。そりゃあ原稿を書くこと、ですよねぇ?先生」
「俺がやりたいことを勝手に決めるな。だいたい、お前が俺のことを先生って呼ぶときはロクなことがないときだぞ、柏木」
「ロクなことがないって、それは締め切りを守らない河野君のせいじゃないですか。今回だって、ギリギリのギリまで待ってるんですからね、セ〜ンセ♪」
高校の同級生だった柏木と俺が、編集者と作家という立場でつきあうようになって数年が経った。学生のころから提出期限を守れない怠惰な性格の俺を熟知している柏木は、頃合いを見て原稿の催促と他愛もない無駄話をしに我が家へとやってくる。今回はたまたま、他誌で連載中のエッセイのテーマを見つけて絡んできたというわけだ。
「だいたいなあ、柏木。家で原稿書いてるときは「おうち時間」じゃなくて「勤務時間」だろ。ノーカンだよ、ノーカン」
「でも、原稿を書くこと以外で河野君がおうちで楽しむことってなくないですか?」
「だから勝手に決めつけるなよ。俺にだって趣味の1つや2つくらい…」
あ、あれ?
仕事や家事以外で「おうち時間にやりたいこと」って、今まであったっけ?
俺の思考は完全に停止した。柏木の言うとおり、10代最初から現在に至るまで俺にとって「自宅」と「原稿を書く」は1セットだった。それ以外に家ですることといえば食事、睡眠、掃除に洗濯といった「生命維持に必要な最低限のこと」くらい。外出も極力したくはないタイプだから、我ながら非常にタチが悪い。
「…ないんだ、やっぱり。これだけ待っても河野君の口から何も出ないってことは、おうち時間を楽しむアイテムは持ち合わせていないってことでいいですね」
「嬉しそうに言ってんじゃないよ、柏木。だいたい、他誌の連載なんだからお前は関係ないだろ」
「関係ないけど興味はあるんで。おうち時間にやりたいことがない人気作家の河野君が、どんなふうにこのエッセイをまとめるのか」
「そうやって、締め切り間際の作家をギリギリまで追い詰めていくのって趣味が悪すぎるぞ、お前」
そう言いながら、俺はあることに気がついた。もしかしたら、これが俺の「おうち時間でやりたいこと」かもしれない。
「おっ、ようやく何か思いついたんですか、大先生」
目の前でニヤニヤする柏木を無視して、筆を走らせる。
【おうち時間でやりたいこと。それは、かつて同級生だった奴と他愛もない話をして笑い合う時間を楽しむことだ】
冒頭の部分だけ彼に見せると、プッと吹き出し「いいですね、これ」と言った。悔しいけど、今日も俺は 知らぬ間に「おうち時間」を満喫していたようだ。
さてと、目の前の編集者様のご機嫌を損なわないうちに本日の「勤務時間」へと突入するか。
【子供のままで】
突然の事故で両親を失ったとき、周りの親族は自分の都合ばかりを主張して、誰一人として僕を引き取ると言わなかった。
たまたまその場に居合わせた早苗さんは、大学時代からの両親の友人だった。彼女は、互いに責任を押し付け合う親族から僕のことを遠ざけ、こう言った。
「あのね、子どもが子どものままでいられる時間って、本当に短いの。だから、今は思いっきり「子どものまま」でいて欲しい。私たち、ちゃんとあなたが大人になるまで見守るから」
そして、未だ罵り合っていた親族に「彼は私が家族として養育します。どうぞご心配なく!」と言い放ち、僕の手を引いてその場を後にした。
その後の僕は、周りの大人たちに遠慮することなく「子どものまま」でいられた。それは、早苗さんがあのときの言葉どおり僕を見守り続けてくれたからだ。
今日、僕は成人年齢にあたる18歳の誕生日を迎えた。早苗さんに手を引かれた日から、干支が一回りした。
「いよいよ大人の仲間入りね。おめでとう」
笑顔でそう言ってくれる早苗さんに、僕は内緒で用意していた小さな花束を差し出した。そして、この日初めて彼女を名前以外で呼んだ。
「今まで本当にありがとう。これからも変わらずよろしくね、母さん」
母の目から大粒の涙がこぼれるのを見るのは、この日が初めてだった。いつまでもいつまでも、母は泣きながら僕を抱きしめ離さなかった。
明日は母の日。上手くできるかわからないけど、母の大好きなオムライスを作って祝おうと思っている。
【愛を叫ぶ。】
私、東雲初芽(しののめはじめ)はクラス担任の鈴木先生から「しののめめ」と呼ばれている。入学したときから卒業を間近に控えてもなお、顔を合わせるたびにこう呼ばれては生徒から集めた課題のノートやプリントを準備室まで運ぶよう命じられた。
「先生、「しののめめ」って呼び方、何か恨みがあるようにしか聞こえないんですけど。『おのれ、××め』って親の仇みたいな。もう、卒業も近いしそろそろやめてもらってもいいですか」
「別にいいじゃん、呼びやすいんだし。お前、もうすぐ卒業だろ。じゃあ、今更変えることないじゃんか」
「でも、「しののめめ」って東雲より一文字多いんですよ? クラスのみんなは『めめ』って呼んでくれるし」
「いいんだよ、別に。俺は友達じゃなくて「先生様」なんだから」
最後はジャイアンみたいなことを言って、結局呼び名は変わることなく卒業の日を迎えた。なんだかんだで3年間の高校生活で最も関わりが深かったのは鈴木先生だったので挨拶しようとするも、常に他の卒業生たちに囲まれていて話せそうにない。諦めて校舎の外に出ようとしたそのときだった。
「東雲!」
振り返ると、そこには鈴木先生の姿があった。先生が私の苗字を正しく呼んだのは、このときが最初で最後だったかもしれない。
「卒業おめでとうな!」
先生は笑顔でそう言って、私の頭に手を置いた。
先生、本当はあなたが好きだと伝えたかった。あなたと過ごす時間が何より大切だった。この先も、ずっとずっとこの想いは変わらないと言いたかった。「先生と生徒」という関係でなかったら、伝えたい想いはたくさんあるはずなのに。
「先生、3年間見守ってくださってありがとうございました」
こぼれそうになる涙を必死で抑え、こう言って一礼するのが精一杯だった。
「そのままでいろよ、東雲。じゃあな」
先生はそう言うと、後ろ向きで右手をヒラヒラさせながら校舎へと戻っていった。
その後、大学を卒業した私は縁あって母校の図書室で司書として働き始めた。鈴木先生とは「先生と生徒」から「先生と先生」になり、今では「家族」として共に暮らしている。仕事上は旧姓を使っているが、結婚して苗字が変わったのは夫である先生の方だった。
「だって東雲ってカッコいい苗字じゃん」
それが、夫が改姓した最大にして唯一の理由らしい。
「その割に、ちゃんと苗字呼んでなかったじゃない。いっつも「しののめめ」って」
「いや、あれは、つまり、その…だな」
どうにも歯切れが悪い。気になって問い詰めると、ようやく白状した。
「他とは違う、俺だけの呼び名でお前のことを呼びたかったの!」
初めて知った。あのときから、あなたは私を呼ぶたびに愛を伝えていてくれたんだ。今、耳まで真っ赤になっている先生の隣でそっと囁いた。
「ありがとう、マコトさん。大好きだよ」
【モンシロチョウ】
「とおしゃん、みてみて! かあしゃんのちょうちょ、いるよ!」
そう言って、ハヤトが庭先でひらひらと舞うモンシロチョウを指差した。
「ぼくのおべんとぶくろといっしょだ!」
嬉しそうにはしゃぐハヤトの手には、菜の花の周りを舞うモンシロチョウを刺繍した手作りの弁当袋が握られている。ハヤトの母、つまり僕の妻チハヤが彼に遺した唯一のものだった。
我が子を身籠ったとき、チハヤは既に自分の生命が長くないことを知っていた。それでも彼女は僕の目を真っ直ぐ見つめてこう言った。
「私、この子を産みたい。自分の生命と引き換えになっても、縁あって授かったこの命を守りたい」
覚悟を決めた彼女を前に、僕がそれを止められるわけもなかった。彼女は無事にハヤトを産み、2年という限られた時間をともに過ごした。
ハヤトが生まれて間もなく、チハヤはあの弁当袋を作り始めた。もともと超がつくほどの不器用さで裁縫の類いは避けて通ってきたという。
「でも私、この子が幼稚園に行くころはもういないから。せめて、私が母としてできることを1つでも遺したいの。モンシロチョウって、幸運を運ぶといわれてるんだって。ハヤトにも、幸せがたくさん運ばれてるようにいっぱい刺繍しないとね」
そう言いながら真剣な眼差しで刺繍する彼女は、苦手なことのはずなのにとても嬉しそうだった。こうして彼女の想いがつまった弁当袋は、この春幼稚園に入園したハヤトの手に渡ることとなった。
後から知ったのだが、モンシロチョウはこの世を去った者が姿を変え、ひらひらと舞いながらこの世に生きる者たちを見守っているとも言い伝えられている。おそらく、チハヤはそれも知っていたことだろう。
そういえば、ハヤトが幼稚園に行くようになってから庭先でモンシロチョウを見かける機会が増えた気がする。もしかすると、あれは…
「とおしゃ〜ん!」
ハヤトの声にハッと我に返った。そろそろ幼稚園に行く時間だ。今日もまた、あのモンシロチョウ達が彼を見守ってくれることだろう。
【忘れられない、いつまでも。】
「すみません、それをください」
自分の親より遥かに年上のその男性は、店に入るなりある商品棚を指差した。
「いらっしゃいませ。ありがとうございます。どちらの商品でしょうか?」
「それです。青い縞の、太めの、それ」
男性が指差していたのは、数万円はする高級万年筆。この店で長く働いているが、これほどの高額な商品を入店直後に指定する客は見たことがなかった。
「スーべレーンですね。かしこまりました。今、ご用意いたします」
私は木製のペントレイを取り出し、男性が指定した青縞の万年筆を乗せた。誰もが一度は持ちたいと願う憧れの逸品。それを目の前にして、男性は心底嬉しそうだった。
「あぁ、これでやっと願いが叶う。実はね、この買い物は妻へのプレゼントなんですよ」
そう言うと、男性はちょっと長くなりますが…と前置きして話し始めた。
「妻と私はね、新聞の一面に載っているコラムを半分ずつ書き写しているんです。前半を私が書いたら後半を妻が書き、翌日は前半が妻で後半が私というようにね。もう、そんなことを10年以上毎日続けていて、最近妻が言うんですよ。ここまで長く続けられてるんだから『2人ともよく頑張ってるで賞』が欲しいねって。そんなときに、たまたま新聞でこの万年筆のことを知ってね。見た目が綺麗だし書き心地も良さそうだし、すぐこれだって決めたんです」
素敵なご夫婦のエピソードに、胸が熱くなた。なるほど、だから最初から「決め打ち」だったのか。
「あの、差し支えなければ教えていただきたいんですが、書き写しを始めるきっかけは何かあったんでしょうか?」
「東日本大震災です」
男性は静かに答えた。
「震災直後は新聞もテレビも震災一色で、なかなか直視できなくてね。1年経ってようやく「あのとき新聞やテレビは毎日どんなふうに震災を伝えてたんだろう」って冷静に考えられるようになったんです。それでも、長文の新聞記事や直接的な映像はまだ受け入れることが難しくて。そんなときに、新聞紙上で毎日同じ字数で異なる話題を提供しているコラムの存在を思い出したんです。最初は1人で始めたんですが、半分書くのがやっとでしてね。それで、見るに見かねた妻が残り半分を書いてくれるようになった、というわけなんです」
「そうですか…教えていただいてありがとうございます。このペンはインクがとても多く入りますし、書き心地も良いので長く書いていても疲れにくいです。きっとご満足いただけると思います」
その後、実際にインクをつけて男性に試筆してもらった。
「本当に書きやすいねぇ。今でも使っていた安いものとは全然違う。これなら、10年先20年先も使っていけそうだ」
男性は、遠い未来の自分と妻の姿を思い浮かべているようだった。そして、よほどお気に召していただけたのか、プレゼントと言いつつも「たまには俺にも使わせてくれないかなぁ」と呟いていた。
「お買い上げありがとうございます。ぜひ奥様と楽しんでお使いください」
「こちらこそありがとう。存分に楽しませていただきますよ!」
男性は商品の入った袋を掲げてニッコリ笑った。そして、深々と一礼して店を後にした。
今でも、万年筆を手に取るとあの男性のことを思い出す。きっと今もご夫婦で幸せを分け合っていることだろう。