木蘭

Open App

【忘れられない、いつまでも。】

「すみません、それをください」

自分の親より遥かに年上のその男性は、店に入るなりある商品棚を指差した。

「いらっしゃいませ。ありがとうございます。どちらの商品でしょうか?」

「それです。青い縞の、太めの、それ」

男性が指差していたのは、数万円はする高級万年筆。この店で長く働いているが、これほどの高額な商品を入店直後に指定する客は見たことがなかった。

「スーべレーンですね。かしこまりました。今、ご用意いたします」

私は木製のペントレイを取り出し、男性が指定した青縞の万年筆を乗せた。誰もが一度は持ちたいと願う憧れの逸品。それを目の前にして、男性は心底嬉しそうだった。

「あぁ、これでやっと願いが叶う。実はね、この買い物は妻へのプレゼントなんですよ」

そう言うと、男性はちょっと長くなりますが…と前置きして話し始めた。

「妻と私はね、新聞の一面に載っているコラムを半分ずつ書き写しているんです。前半を私が書いたら後半を妻が書き、翌日は前半が妻で後半が私というようにね。もう、そんなことを10年以上毎日続けていて、最近妻が言うんですよ。ここまで長く続けられてるんだから『2人ともよく頑張ってるで賞』が欲しいねって。そんなときに、たまたま新聞でこの万年筆のことを知ってね。見た目が綺麗だし書き心地も良さそうだし、すぐこれだって決めたんです」

素敵なご夫婦のエピソードに、胸が熱くなた。なるほど、だから最初から「決め打ち」だったのか。

「あの、差し支えなければ教えていただきたいんですが、書き写しを始めるきっかけは何かあったんでしょうか?」

「東日本大震災です」

男性は静かに答えた。

「震災直後は新聞もテレビも震災一色で、なかなか直視できなくてね。1年経ってようやく「あのとき新聞やテレビは毎日どんなふうに震災を伝えてたんだろう」って冷静に考えられるようになったんです。それでも、長文の新聞記事や直接的な映像はまだ受け入れることが難しくて。そんなときに、新聞紙上で毎日同じ字数で異なる話題を提供しているコラムの存在を思い出したんです。最初は1人で始めたんですが、半分書くのがやっとでしてね。それで、見るに見かねた妻が残り半分を書いてくれるようになった、というわけなんです」

「そうですか…教えていただいてありがとうございます。このペンはインクがとても多く入りますし、書き心地も良いので長く書いていても疲れにくいです。きっとご満足いただけると思います」

その後、実際にインクをつけて男性に試筆してもらった。

「本当に書きやすいねぇ。今でも使っていた安いものとは全然違う。これなら、10年先20年先も使っていけそうだ」

男性は、遠い未来の自分と妻の姿を思い浮かべているようだった。そして、よほどお気に召していただけたのか、プレゼントと言いつつも「たまには俺にも使わせてくれないかなぁ」と呟いていた。

「お買い上げありがとうございます。ぜひ奥様と楽しんでお使いください」

「こちらこそありがとう。存分に楽しませていただきますよ!」

男性は商品の入った袋を掲げてニッコリ笑った。そして、深々と一礼して店を後にした。

今でも、万年筆を手に取るとあの男性のことを思い出す。きっと今もご夫婦で幸せを分け合っていることだろう。

5/9/2023, 4:34:30 PM