木蘭

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【真夜中】

「かぁしゃ〜〜〜〜〜ん‼︎」

真夜中、眠っているはずの息子が大きな声で叫ぶ。夢でも見ていたんだろうか。幼稚園に通うようになってから、時々こういう夜がある。

「ハヤト、どうした?」

俺は、息子の背中をさすりながら名前を呼ぶ。  

「かぁしゃんは? かぁしゃんはどこ?」

息子は真っ暗な部屋の中、手探りで自分の母の行方を探そうとする。でも、彼の探す「かぁしゃん」はここにはいない。

ハヤトが生まれる前から闘病を続けていた妻のチハヤは、2年前にこの世を去った。幼稚園に通う我が子の姿を、彼女は知らない。

だが、彼が生まれて1年が経ったころから彼女はあるものを作り始めた。菜の花とモンシロチョウの刺繍がついた弁当袋は、お世辞にも器用とはいえない彼女が作り上げたものだ。ハヤトが幼稚園に通うようになったときのためにと、時に自らの生命を削るように必死で仕上げていた。

「ハヤト、かぁしゃんはここだよ」

俺は、部屋の電気を点けて幼稚園バッグに入っている弁当袋を取り出してハヤトに渡した。ハヤトは愛おしそうにその袋を抱きしめ、「かぁしゃん…」と安心したように言った後、間もなく眠りについた。

チハヤ、君の愛の力は絶大だ。以前、夜遅くまでこの袋を作っていた君に「僕の愛があれば、君は何でもできる」って言ったのを覚えているかな。でも、君の命懸けで遺した愛情のおかげで、僕はハヤトのためなら何でもできる。おそらく、今日みたいな真夜中の光景はこの先何度もあるだろう。そのたびに、ハ君と僕がどれほどハヤトを愛しているか伝えて乗り越えていくつもりだ。

だから、これからも僕らのことを変わらず見守っていてほしいんだ。頼むよ、チハヤ。



【愛があれば何でもできる?】 

愛があれば、何でもできる。少なくとも、今の私はそう思っている。愛する我が子のためならば、たとえ家庭科の成績が万年芳しくなかったこの私でも、幼稚園に持っていくお弁当袋くらいは手作りで用意してあげたい。

できるはずだ。いや、できなきゃいけない。なぜなら、私に残された時間はもうあまり長くはないから。

この子がおなかの中にいるとわかったとき、同時に判明したのは悪性の腫瘍があることだった。出産まで治療を止めたら、確実に病気は進行する。が、治療を優先させれば子どもは諦めなければならない。  

子どもと私の生命、どちらも諦めたくない。

私は、主治医にそう伝えた。そして、一年前に長男を出産した。最近では食欲も体力もだいぶ落ちて、日中動ける時間も短くなってきた。

この子が幼稚園に通うころ、私が母として隣にいることは叶わないだろう。せめて、我が子を愛していた証を遺しておきたい。だから、この子が毎日使うであろうお弁当袋を作ろうと決めたのだ。

「まだ、起きてたの。もうそろそろ寝た方がいいよ」

夫は、やんわりこう言った。

「うん、あともう少しだけ」

私が続けようとすると、いつもは無理に止めることのない彼が、珍しく私の手に自分の両手を添えて作業を止めた。

「今日はもう、終わりにしよう」

「でも、もうちょっとだけやっておかないと間に合わないかもしれないから…」

私がそう言うと、彼はにっこり笑って首を横に振る。

「大丈夫、ちゃんとできるよ。それより、体力を消耗しすぎて明日動けなくなったら困るだろ。休めるときには、ちゃんと休まなきゃ」

そして、彼は私の耳元でこう囁いた。

「僕の愛があれば、君は何でもできるから」

ああ、そうか。そうなんだ。

この人もまた、私と同じ気持ちなんだ。彼の愛が続くかぎり、私の愛もこれから我が子へとつながっていくんだ。たとえ隣にいられない日がきても、私にはまだできることがある。

菜の花とモンシロチョウの刺繍を仕上げるのは、また明日にしよう。彼と私の愛情があれば、できないことはないのだから。

5/17/2023, 11:17:33 AM