あなたとわたし
ザーザー降りの雨が止みました。
「雨が止むと虹が見えるんだよ」
って、おばあちゃんが言ってたので、ぼくは窓の外を見ました。
「わぁ……」
真っ暗だった空の隙間から大きな虹が降りていました。いつもお母さんが連れていってくれる公園の方に降りています。
「おかあさーん」
呼んでも返事はありません。
そうだ!
さっき、
「夜ご飯を買いに行ってくるから、いい子にしてるのよ」
って言ってたんだ。
なんとなく、ぼくはキョロキョロ周りを見ました。
「よしっ」
ぼくは黄色のレインコートと長靴を履いて、スコップを持って家を出ました。
「やりたいことがあったらお母さんに話しなさい」
って約束を破るみたいで、なんだかドキドキしました。怒られるかもしれません。でもどうしても、虹の根っこが見たいんです。
マンホールがいつもより大きく見えます。ブロックの壁が高く見えます。ネコのしっぽが太く見えます。
ひとりで外に出たのは初めてです。
いつもお母さんやお父さんが一緒にいる時は全然そんなことないのに。
怖くて、ぼくは公園に走りました。
公園につくと、虹はありません。
「どうして?」
公園の端から端までを見て回ります。雨でドロドロの土が長靴にくっつきました。
それでも虹はありません。少し雨も降ってきました。なんだか寂しくなってきて、ぼくは栗の木の下によりかかりました。
「はじめまして」
「だれ? いつからいたの?」
隣を見ると、知らない女の子がいました。
「さっきから。そんなこと、どうでもいいでしょ」
そんな気もしてきました。
「なんでスコップ持ってるの?」
女の子は言いました。
「虹の根っこがみたくて」
「ふーん」
女の子はつま先で地面を蹴りました。
「なんで泥だらけなの?」
「虹がなくなっちゃって。探してたから」
「ふーん」
「なんで泣いてるの?」
「泣いてなんかないよ!」
そう言うと、ぼくはなんだか寂しくなって泣いてしまいました。
「大丈夫。もうすぐ雨が止むから」
「雨じゃないよ!」
「大丈夫。そのうち空が晴れるから」
「空でもないよ!」
「大丈夫。ひとりじゃないでしょ」
「……うん」
同じくらいの歳に見えるのに、ぼくよりずっと落ち着いていて、なんだか安心してきました。
「スコップ貸して」
女の子は言いました。
「いいけど、なにするの?」
「栗、埋めるの」
「埋めるとどうなるの?」
「木が生えるの」
それならぼくも知っています。図鑑をたくさん読んだから。
「僕も一緒に埋めてもいい?」
「うん」
「やった!」
僕は女の子と一緒に栗を埋めました。
気がつくと、空は晴れていました。僕はすっかり栗の木の下で寝ていたようです。
土は乾いていて、長靴の泥を払うと落ちました。
女の子はいません。
あれ? 夢だったのかな。そう思ったけど、でも違いました。
だって、目の前にスコップが置いてあって、その横には
「寝ちゃうなんて酷いよ。また遊んでね」
と土を削って書かれていたから。
暗い部屋で布団に籠って一日を終えればいい気がしていた。
そんな何も考えたくない日だった。
家の電話が鳴った。今日は父も母もいない。
……仕方ない。
布団を身にまといながら、受話器をとった。
「もしもし、雨後(あめあと)です。坂月(さかつき)さんのご自宅で間違いありませんか? 」
「雨後か」
「坂月さんでしたか! 」
「あぁ」
雨後は同級生だ。同じ部活に所属しているが、昨日の一件
は知らない。
「寝起きですか?」
「いや」
「そうでしたか……。いつもと調子が違う気がして。……疲れてるみたいですけど、大丈夫ですか?」
「あぁ」
「……そうですか」
雨後の声には重たい息が混じっていた。
「それでですね、えっと、その。コーヒーを飲んでみたいと思ってまして……」
恥ずかしがりやな雨後は話が長い。適当に相槌を打ちながら、俺は窓から空を見た。
空は暗く、重たい。いつ晴れるか知れない雲に覆われている。どうしようもない閉塞感が空をいっぱいにしていた。
受話器から雷の音が聞こえた。
「きゃっっっ」
「大丈夫か」
「えっ? 」
「大丈夫か、って聞いたんだ」
「えっ、あっ、そ、その……。はい……」
雨後は黙り込んでしまった。
雷に当たった、ということは無いだろうが。
雨後の家の方を見る。雷が落ちたからか分からないが、青空が雲間から見えていた。
「雨後」
「は、はい。なんでしょう」
「何か話してくれ」
「そ、そうですね。……えっと、そうだ。グッピーに餌をあげました! 」
「グッピー?」
「はい。グッピーです」
……。
「いま笑いました?」
「あぁ。間抜けな響きだなって」
「グッピーが、ですか」
「あぁ」
「酷いですよ! 」
「そんな名前をつけたやつに言ってやれ」
受話器から雨後の抗議の声が聞こえた。適当に受け流して、時計を見る。まだ12時か。
「雨後」
「何ですか?」
「今から空いてるか」
「空いてますよ」
「コーヒー飲まないか」
「えっ……! いいんですか!」
雨後は大きな声で言った。
駅前でコーヒー飲むだけなのに、そんなに喜ぶのか。全く。意味もなく壁を見た。
「駅前13時な」
「はい!」
受話器を置いた。
そうとなれば準備しなければならない。
駅前まで布団をズルズル引っ張っていけない。リビングに投げ捨てる。パジャマのまま会う訳にはいかない。寝癖もついたままだ。どれもこれも直して、外行の服に着替えた。
ポケットに適当な文庫本と財布を詰める。携帯を持たないいつものスタイル。
よし、行くか。
玄関の扉を開けた。
いくらか雨は降っているものの、雲間から青空が覗いている。通り雨だったのかもしれない。この調子なら、駅前に着く頃にはすっかり晴れているだろう。
飾りげのないコウモリ傘を差す。晴れるかもしれないのに重たすぎるか? まぁ、どうでもいいか。
家の軒先から垂れ落ちる水の音がよく聞こえる雨の中、俺は駅に向かった。
永遠に
深夜一時。
僕はベットの上でライターをつけた。口に咥えた煙草の先端が赤くなる。優しく吸ってやると、バニラの甘い匂いが口をいっぱいにした。
「煙草、吸うんだ」
隣で寝ている彼女が物欲しそうな目で見ていた。
しょうがないな。長い髪の毛を優しく撫でた。
「ずるい人。わたし、煙草嫌いなのよ」
「じゃあ消そうか?」
「いいわ。貴方、煙草を消したら構わず寝ちゃうでしょ」
「どうかな」
一吸いして、溜まった空気を存分に味わう。
「寝られるくらいなら、煙草を吸いながら撫でてくれた方がいいの。もう飽きちゃったんでしょ」
僕は笑った。
煙が一気に放出される。白煙がぼんやり浮かぶ。
おっといけない。これじゃ味わえないじゃないか。
「気付け薬みたいなもんだ」
また優しく吸った。
「また訳の分からないこと言って」
ゆっくり、舌の先で押し出すように煙る。薄めた蜜で作った綿菓子のような味がする。バニラの香りが漂った。
「いまの、本気だったの!」
彼女は目を大きく見開いていた。
「なんで嘘つくんだ」
「なんでも何も、あなた嘘つきじゃない」
「僕は君が好きだ」
「そういうところよ。またすぐに嘘をつく」
また吸った。
「そうやって煙草を吸えば誤魔化せると思って。ほんとに好きならそうは言わないわ。嘘つき!」
辛い。ソーダ水のような刺激がする。これはこれで美味しいけど、ちょっと切ない気もした。
「訳分からないわ。どうしてそんな酷い嘘を言えるのよ……」
彼女の瞼は腫れている。時々、すすり声が聞こえる。
「嘘じゃないんだ。君が好きなんだ」
また、吸った。
「なんで、なんで嘘じゃないのよ……」
彼女は深く俯いている。
「訳が分からないわ。明日は違う人を抱くのに、今はほんとに、心からそう言える貴方が、私には分からない……」
そう言うと、彼女は僕に背中を向けた。
煙は甘かった。小さく開けた口先から漏れ出るように逃げていく。
煙草を灰皿に捨てて、僕は背中から抱きしめた。
「やめて!」
「こうするだけだよ」
「やめてってば……!」
「……」
「やめてよ……」
「……」
「……」
しばらくするとすすり声が聞こえなくなった。
「……酷い男」
「ごめん」
「別にいいの……。分かってたことだから」
「ごめん」
「明日はいまの気持ち、忘れちゃうの?」
小さく頷いた。
「でも、今日あったことは覚えてる。明日には気持ちが変わっちゃうけど、今日君が好きだったことは変わらない事実なんだ」
「最低……」
彼女はそう言うと、振り返って僕をじっと見つめた。髪が乱れていた。
気づいたら恥ずかしいだろうな。
僕は彼女の乱れた髪を梳いた。
理想郷
「これは桃ではない! 」
見慣れない白服を着た人は、木にぶら下がっているモモの実を指して言った。
モモの実は握りこぶし大で、表面には産毛が生えている。果実の頂点はきゅっと窪んでいて、その中心から垂れ下がるように割れ目がある。
「いいや。これはモモだね! 」
私は腕をぎゅっと組んで言った。
「根拠はなんだね根拠は! 」
「先月この樹に白い花が咲いたんだ。そしていま、ピンクな実をつけている! 貴方には分からないだろうがね! 」
私はモモを栽培している。モモの特性や植生はお手の物であり、絶対の自信がある。
「白い花が咲いてピンクの実をつければ桃だっていうのか!」
「なにを、それだけじゃないぞ! 産毛が生えているし、割れ目もある! 見ればわかると思ってあえて言わなかったんだ」
「それじゃ白い花が咲いてピンクの実をつけて、産毛が生えていて割れ目があったら桃だって言うんだな! 」
「あぁ。そう言ってるんだ」
「横暴な桃農家め! 」
「なんだとこのわからず屋! 」
これがモモでないならなんだって言うんだ。
まさか「食べるには少し小さいからモモとは呼べない」なんてくだらないことを言うんじゃないだろうな。
「……そんなに気になるなら、もいで齧って見るといい。モモの味がするはずだから」
「それじゃダメなんだ! 」
「どうして」
「仮に桃の味がしたとして証明する手段がない! 」
証明?
なぜそんなことをする必要が……。
……!!
私は先日届いた電報を思い出した。
「……もしや、生物学者の百木(ももき)先生でしたか!」
「そうだとも」
電文には、生物学者の百木という人がモモの樹を調査するとの事が記されていた。
百木は遠い島国からニ日以上かけて、飛行機なるもので飛んできたらしい。
「大変失礼致しました。百木先生だとは知らず……」
「それはいい。それよりもこの実は、この地域では桃なんだな」
「はい」
「君の常識を疑うような真似をしてすまなかった。私は本当に、このような果物を見たことがなかったのだ」
「と、いいますと?」
「私の知っている桃はもっと白っぽいピンクをしている。品種によっては濃いピンクのものもあるが、こんな蛍光色めいたものは見たことがなかった。それに、この樹の樹皮にはトゲが生えている。私の知る限り、桃の木に棘は生えていない」
なるほど。そういうことだったのか。
島国と私たちの国が国交を持ったのは、つい最近である。正確に言えば、島国だけじゃなくて、世界と、なのだが。
つまり、常識が違うのだ。
聞いた話では、大海原を超えた先に住む彼らの地には、砂漠なる死の土地があり、雪なる白い綿のようなものが降ったりするらしい。
年中暖かく、沢山の植物に恵まれているこの地とは、やはり常識が全く違うのだろう。
「その、君たちはその実を食べているのか? 」
百木先生はおっしゃった。
「はい。まだ少し小さいですが、これくらいの実を食べることもあります」
「さっきは証明なんて言ったがね、私は君たちの食性にも興味があるんだ」
「はぁ」
「これを食べてもいいかな? 」
百木はモモを指して言った。
「ええ。是非をお食べになってください! とても美味しいですから」
私はそう言うと、モモの実を二つもいだ。
片方にかぶりつく。
ジュワッと優しい味が広がって、美味しい。
「私たちはこう食べてます。どうぞ」
百木にモモの実を渡した。
「頂こう。……うん、……うん。美味いな」
「本当ですか! よかった」
「美味いが、これは桃では――」
直後、百木は倒れた。
口から泡を吹いている。
「先生、先生! どうしたんですか! 大丈夫ですか! 」
背をトントン叩いてみる。が、呼吸はどんどん浅くなって、やがて止まった。
「先生!!! 」
体はもうピクリとも動かない。死んだらしい。
私は背中の羽をパタパタ動かして空を飛んだ。
死体は土に帰ってやがて養分となり、モモの樹の栄養となって実になるだろう。その時、私は先生のことを思い出しますね。
しばらく空を飛んでいると、電文の一部を思い出した。
「モモは人には猛毒である。案内する翼人は、人がモモを食べないよう十分注意すべし」
懐かしく思うこと
手を伸ばしたくなる月は一年ぶりだった。
満月の夜。下戸な僕が月に一度、酒を飲む日だ。
ベランダで、切子のグラスにまあるい氷をがらんと入れた。
氷はまるで元々そこにはまっていたみたいに収まる。
そこにウイスキーをちょびっと、ソーダ水を並々に注いだ。
カランコロン――
ドアチャイムを優しく叩いたような音を鳴らしながら、氷は空中ブランコみたいに一回転して浮かび上がった。
「ふぅ……」
ほっと、一息。
酒をかき混ぜる。
カラカラ――
ドロップの入りの缶を振ったみたいな音がする。
まだ鳴り止まないうちに、僕は酒をぐっと飲んだ。
「うぇ……。やっぱキツいよ」
(馬鹿だな。そんなの飲んだって仕方ないじゃないか)
「そうでも無いんだぜ」
(いいや。君は馬鹿なんだ)
「お前の方が馬鹿だった」
(……)
1年前、満月の夜。
僕の親友は独りで逝った。
遺書には「ばーか」って一言。
元々その気はあった奴だ。
どこか厭世的で、勝手に悟ったような顔して、いつも僕と反対のことをする。
「ばーか」って、誰が馬鹿だよ。
あの日の晩からしばらく、あの満月は過ぎた夜じゃなかったんだぞ。月が満ちる度、ついさっきお前がいなくなったみたいな、そんな気分だったんだ。
あっちでもニヒルに笑ってるんだろうなって、お前を懐かしく思えるようになったのはつい三ヶ月前なんだ。
思う度、チビチビと酒を飲んだ。
グラスの酒が尽きたので、僕はまた、ウイスキーを注ぐ。
カラン――
(もうやめとけって)
「月に一度なんだよ」
(なら来月もあるだろ)
「うるさいぞ寂しがり屋」
(それはお前のことだろう!)
「怒るなんて珍しいな」
しんと冷たい夜に、僕の体はまだ暖かい。
(……風邪ひくぞって言ったんだよ)
「構わない」
(構わなくない。熱でも出たらどうするんだ)
「そりゃそんとき考えるさ」
(それじゃ……!)
「怒るな。人のために怒るな。さっきみたいに自分のために怒れよ」
(……)
「不器用な奴だな。素直に言えよ」
(……お前はまだ、こっちに来るべきじゃないし、近づくこともしちゃいけない)
「もうちょっとだぞ」
(……元気にしてて欲しい)
「……分かったよ」
僕はまた、ウイスキーを注いだ。
「なんてな。誰がお前の言いなりになるか!」
(お前……!)
グイッと酒を一気に飲んだ。
「また来月な」
(もう飲むな)
「また来月な」
(もういいから)
「また来月な」
(……ありがとう)
「……はじめからそう言えって」
やっと素直になりやがって。
星の数が増えて見えた。
ほとんどソーダ水のウイスキー。たった三杯の間しか会えない。
やっぱりもう一杯飲もうかな。
『やっぱりお前は馬鹿なんだ』
懐かしい声が聞こえた気がして振り向くと一陣吹いて、さ、寒い。
「は、ぶわぁっ、ハクション!!」