『記憶の地図』
自分は忘れっぽい。昨日の自分から今日の自分にメモを残さないといけないぐらいに。
持ち歩く手帳に単語を書き、その単語を記憶の地図にしているのだ。
昨日のメモを見返した。階段下処理の単語だけが目立つインクで書かれていた。基本的にインクの色は統一しているからその単語だけが異様に目を引いた。
階段下は確か収納スペースだ。
確認のため階段下に向かい、収納スペースを開けた。
扉を開けると手足が飛び出し、次いで顔が出た。狭いスペースに押し込められ、関節がおかしな方向に曲がった男性がいた。
脳が叫び喚くが体は自然と動き始め、着々と処理を進めていく。そして思い出した。自分の職が考えたくもない解体業者であったことを。
『マグカップ』
仕事終わりの休憩室に、片付け忘れられていたマグカップがあった。
近づき、意中の人のマグカップだと分かった。
つい先ほどの出来事を思い出した。
最近よく話すようになった、前より仲良くなれた気がする、とあの人が話していた。その人はあの人と同性ならまだしも、自分と同じ異性だ。仕事の上の関係とは言いつつ、距離が近い2人を見るたびに焦りが募る。
ちょうど良い。
意中の人のマグカップを手に取り、空中で手を離す。マグカップは重力に従って落下し、ガシャンと音を立てて破片となった。
これであの人に話しかける口実ができた。
緩む頬を押さえつつ破片を拾い、明日初めて話すあの人にどう話しかけようかと頭を悩ませた。
『君だけのメロディ』
あの子が泣いていた。
僅かに開けたドアの隙間から微かに声が聞こえた。覗き見ると皆から好かれる人気者がいた。人の前で明るく振る舞うあの子が、今は部屋で1人、声を押し殺し泣いている。辛い、辛いと呟いた。
どこか自分とは違うと思っていた印象が崩れていく。そこで、誰からも好かれるあの子の思いを初めて聞いたことに気づいた。
蓋していたあの子への思いが顔を出す。いつしかヘドロのようになり、友達として相応しくないと抑え込んだ感情だ。
可哀想だと思った。いい気味だとも思った。
ただ、聞こえたあの子の泣きごとに、仄暗い優越感を抱いたことは確かだった。
『美しい』
重たい瞼を押し上げると赤く濁った視界が広がる。
投げ出された手足はピクリとも動かない。半開きにした視界には青白く放り出されたような手があり、そのの下には鮮やかな赤色が広がっている。
体には力が入らなかった。
足音が近づいて、目の前に靴が現れた。僅かに捉えられる視界を靴の持ち主に向ける。
見えたのは、手に刃物を持って無表情で見下ろす親友だった。
周囲へ互いに親友だと豪語するほどに仲は良かった。表情が豊かで、表情をコロコロと変える親友と過ごすのは飽きなかった。
その親友が感情の抜け落ちた顔でこちらを見下ろしており、服や顔には自分の返り血が飛び散っていた。普段からは考えられない姿だった。
膨大な情報量で、見たことのかい親友の美しい姿を脳に焼き付けて意識を落とした。
『どうしてこの世界は』
腹立たしい、腹立たしい。
鳩尾で黒く煮えたぎったものが居座っている。それは鳩尾から徐々に上へと向かい、やがて喉元にまで到達しようとしている。
「なんでそんなことしてるの、時間考えて」
「それ二度手間になるって分からない?無駄だよ」
「普通は分かるでしょ」
「あなたが今やれって言ったから」
「あなたは二度手間だとしても私には必要なこと」
「あなたの普通は私の普通でないの」
飲み込んだ思いは重なり、燻り、煮詰まっていく。
その代わりに目から冷たいものが流れ出していく。
頬をつたい、シミが広がる。嗚咽が漏れていく。
なんて惨め。この世界には思いを伝える術がない。