冷瑞葵

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10/29/2025, 12:48:57 AM

おもてなし

 懐かしいな。それまで数ある言葉の一つに過ぎなかった5文字が、東京オリンピックの招致を機に日本のコアであると印象づけられた。
 改めておもてなしって何?と言われると、私はまだ答えを見つけられていない。仮にこれが本当に日本のコアであるとするならば、当然になりすぎて存在に気づけていないかもしれない。なら国外に行けば分かるのか……というとそうでもない気がしていて、単に文化の違いで終わりそうだ。
 以前海外に行ったときに飲み物をこぼされてしまったことがある。謝罪されたので「大丈夫ですよ」と言ったら何も保障がなかった。あぁ、そういう親切はここにはないのか、と思った。批判というより、反省という意味で。
 じゃあここで替えの飲み物を持ってきたり布巾を持ってきたりするのがおもてなしなのか?と考えると、なんか少しモヤッとする。そんな優しさは他者に利用されて終わりだ。私は「あらゆる善意は悪意に搾取される」という穿った考えの持ち主である。
 おもてなしってそんなに良いものではないんじゃなかろうか。おもてなしをテーマに創作するなら、私はきっとネガティブな側面を掘り下げる。とことん親切にして、それを利用されて、最後には一転して不親切になるか、あるいは親切を突き詰めて洗脳にまで至るか……。うーん、でも、スカッと系に落ち着いてしまうのは何だかな。
 作品にするならもう一つくらいキーワードが欲しいところ。それが降りてくるその日までこれはストックに保存しときます。

10/2/2025, 2:49:05 PM

遠い足音

 ある日突然"頭"と"体"が分かれた経験がある人って、世の中にどれくらいいるんだろう。朝起きて、起き上がったら"体"が軽くて、目の前には"頭"のない"体"が凍りついたように固まっていた。自分の"体"をまじまじと見たことがなかったから、それが自分の首から下だと気づくのには少し時間がかかった。
 あれから世界は不気味なくらい問題なく回っている。首のある人間たちが、首のない僕を当然という顔で受け入れ、社会の一員として認めてくれる。まるでこの状況に違和感を覚えているのは当人ただ一人だと言わんばかりだ。
 変な感覚なんだ。脳は"頭"にあって、"体"の動きは"頭"が制御する。目も耳も"頭"の方にあるから、"体"の見ている世界はまったくわからない。
 ただ唯一、触覚だけは違う。"体"が受けた振動が"頭"に伝わってくる。どんなに離れていても心臓の鼓動や歩く振動、周囲の気温や触れたものの感触が"頭"に入り込んでくる。気味の悪い感覚だ。
 例えば"頭"をどっかに放っておいて"体"を歩かせると、これまで無意識に処理していた視線の動きや足音がまったく無い状態で、歩く振動と進んでいるという実感だけが脳内にインプットされていく。「人がどこかで歩いている」という遠い足音が音もなく直に伝わってくる。
 そんな実験をしていたら車酔いのような症状が出てしまった。これじゃダメだ。周囲にどれだけ受け入れられようが、こんな身体じゃ普通の生活が送れるはずもない。
 部屋中からありったけの服や布を引っ張り出す。パーカー、マフラー、包帯に至るまであらゆる道具を駆使して頭と体を接続する。暑苦しいのが難点だが、これで酔いは防げるだろう。激しい動きをしなければ一つの身体として生活できそうだ。
 翌日、人々に言われた「あぁ、やっぱその方が便利なんだ」という優しさすら滲む笑顔の意味は――、なんだか恐ろしくて考えないことにした。

10/2/2025, 4:34:46 AM

秋の訪れ

 あいつは、来る。俺は信じている。
 約束の時間から1時間、1日、1週間……。そして1ヶ月経ってもあいつは姿を見せなかった。それでもあいつは来る。きっと来る。
 思えば昔からよくわからないやつだった。寡黙で目立たず、いつもボーっと空を見上げているようなやつだ。でも俺たちは知っている。あいつは本当はすごいやつなんだ。何をやらせても一流で、あいつがいるだけで場の雰囲気が軽くなる。みんなあいつに苛立っているけど、同時にあいつを信頼している。
 毎回涼しい顔で遅れてやってきて「後は任せて」と微笑んでくる。あの不敵な笑みが俺の心を射抜く。伏し目がちな妖艶な眼差しも、薄い唇からこぼれる「おつかれ」の言葉も生きる芸術品のように人々の心を穿ち、治らない痕として残り続ける。認めよう。俺もあいつに魅了されている。
 だから耐える。いつまででも。あいつが輝ける場所は俺が守る。好きなだけ遅れてこいよ。俺は大丈夫だから。
 ――結局あいつが来たのは予定の1ヶ月半後だった。
 あいつはやはり伏し目がちに笑って言う。「お待たせ。もういいよ。後はやるから」と。はは、やっぱカッコいいな。
 俺は待機場に戻っていく。久しぶりに足を踏み出して、ようやく自分の疲労に気づく。体が重い。予定の2倍近く働いたんだ、当たり前か。
 そのとき、目の前から見慣れない顔が近づいてきた。あれは、あいつだ。"冬"だ。
「おつかれ。ついさっき秋と代わったばっかだけど」
「あぁ、うん。でもそろそろ僕のシフトだから……」
 首をかしげ、頭をかきながら歩いていく猫背の背中。それが自分の疲労と重なって、もう少し秋に遅刻グセを直してもらうよう進言しようと思った。

9/27/2025, 5:28:48 AM

コーヒーが冷めないうちに

 飲食物は冷めてしまっては美味しさが半減するという前提のもとに成り立っている台詞だ。私は猫舌なので、その言葉を聞くとつい反発したくなってしまう。熱いと味もよくわからないし、おそるおそる飲むから楽しくない。何より口の中を火傷してしまうんです。ぬるくなってからのほうが柔らかい本来の風味を味わえると思うんです。
 それでも冷めないうちに飲んでほしい? そう。その言葉の裏は?
 最初は親切心から来る言葉だと思った。悪く言うのならばお節介。他のことに気を配らずどうぞ美味しいコーヒーを味わってくださいという、こちらを慮った台詞だと考えるのは自然なことだ。
 でもどうやらそうではないらしい。改めて彼を見ると眼光鋭く飢えた獣のようにこちらを見据えている。自分の最上の作品を相手に味わってもらわなければ作者としての自分は息絶えると言わんばかりに。共感はできかねるが悪いことをしたとも思う。
 コーヒーカップが唇に当たる。熱い。恐怖と焦りが味覚を覆い隠す。こうまでして熱いものを飲ませる必要がどこにある?
 そこでふと恐ろしい仮説が浮かぶ。ただの妄想だ。例えば、高温下で作用する毒物が入っている。例えば、時間経過で作用が低下する薬が入っているからなるべく早く飲んでほしい。そんなはずないとわかっていても一度被害妄想に囚われてしまうと抜け出すのは難しい。静かにカップをテーブルに戻す。
「すみません、失礼します」
 代金は支払う。文句は無いだろう。
 そう内心毒づいて差し出したお札は拒まれた。制するように差し出された手のひらは、続いて黙って扉を指し示す。そう言うなら、お言葉に甘えて。こちらも黙って外への一歩を踏み出す。
「ただ早く帰ってほしかっただけですよ」
 背中から声がかけられる。あらぬ疑いを掛けられたことに対する静かな怒りが感じられる。
「終わりの日を見知らぬ他人と過ごしたくはありませんので」
 遠くの地面が輝いている。冷気が頬を撫でる。鏡のように光る地面に季節外れの雪が降り積もる。氷の膜は大きな生き物のように這いつくばい近づいてくる。なんだそれ、だったら最後に熱さというものを味わっておいてもよかった、と後悔する後ろで食器を洗う音がする。
 唇を軽く舐める。少しヒリヒリして、軽度の熱傷を受けていたのだと気づいた。

9/14/2025, 9:38:21 AM

空白

 教科書の表紙裏で空白の美しさについて語られていたのを思い出した。中学の国語の教科書だったかな。木々が描かれた水墨画が見開きに載っていた。面積比で言えば7対3くらい、画面の大部分がくすんだ半紙の色をそのまま残していて、クリーム色の見開きの端に空白の意義について書かれた文章が追いやられている。
 授業でこれについて多く触れられた記憶はない。先生は空白の美学というものにさほど共感しなかったらしく、ほんの一言程度触れてサラリと飛ばされた気がする。でも私はなぜかこの白黒の作品に魅入られた。多分このときはじめて空白を主役として認識した。何もない空間の空気に思いを馳せると、途端に2次元の世界が遠くへ遠くへと広がっていく。この日から私は「何も無い」という一つのモチーフを獲得したのだと思う。
 いつか「何も無い」をテーマに物語を書いてみたいな。もしかしたらあのときのように、チラリと見るだけで流されてしまうかもしれないけれど。

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